会場:法政大学(市ヶ谷キャンパス) ※アクセス(新しいウィンドウが開きます))
大会参加費:会員無料、非会員500円(ただし大学学部生は無料です。)
09:30 受付開始
10:00~12:15 一般報告・午前の部 (→企画趣旨・概要)
12:30~13:30 昼休み・委員会
13:30~14:00 総会
14:15〜15:00 一般報告・午後の部(→企画趣旨・概要)
哲学史研究は、それが着目する時代(と地域)における大哲学者たち——たとえばプラトンやアリストテレス、カントやヘーゲル、あるいは現象学の伝統に目
を向けるならば、フッサールやハイデガーやメルロ=ポンティやレヴィナス——の著作を丹念に読み、それぞれの思想やそれらが織りなす布置を明らかにするこ
とを目指す傾向にある。たとえば、フッサールは後期の著作や草稿で何に取り組んだのか、『存在と時間』のハイデガーは何を主張したのか、そしてそれらを付
き合わせることで何が見えてくるのか、という具合に。
哲学史研究のなかで主役として扱われる哲学者たちの古典的著作、つまりカノン(正典)がまさにカノンとしての地位を占めていることには、たしかにもっと
もな理由がある場合のほうが多いだろう。個別の事情を無視して単純化してしまえば、ひとつには、それらの著作には総じて何らかの際立った意義があり、それ
を読み解くことが他の手段では得難い何らかの知見をもたらしてくれるから、という理由が挙げられるはずだ。
だが、現在私たちが手にしているカノンのリストが完全であり、哲学史研究がまずもって扱うべきテクストがそれによって尽くされているということは、あり
そうにない。私たちは、着目すべき哲学者たちとその著作を忘却してしまっているのではないだろうか。その忘却によって、重要な何かが捉え損ねられているの
ではないだろうか。
こうした状況にあって、近年の哲学史研究では、カノンの見直しという作業がさまざまなかたちで着手されている。ひとことで言えば、それは、過去のある時
代(と地域)の哲学をすでに定まったカノンを中心にして捉えることで周縁化されてしまった哲学者や哲学的著作を忘却から救い出し、それらに研究に値する対
象としての地位を与える試みである。
ただしすぐさま付け加えなければならないのは、ここでの中心と周縁の内実は、研究対象となる時代と地域によって異なりうるということだ。18世紀末から
19世紀前半にかけてのドイツ古典哲学の研究の場合、その中心となるのはあくまでも大学の哲学教授(カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)だろう。そ
れに対して19世紀後半のドイツ哲学史研究では、哲学教授たちはむしろ周縁的な存在として扱われる(これまでの哲学史研究でこの時代と地域の主役格として
扱われてきたのがショーペンハウアーやニーチェやマルクスといった人たちだということを思い出そう)。また、周縁に追いやられたテクストの名誉回復のやり
方についても、見解がひとつに定まるとは限らない。それらのテクストを「新しいカノン」とみなすのか、それとも、カノンという考え方そのものを拒否するか
たちでそれらを研究すべきなのかについて、議論の余地が残されている。
本シンポジウムは、いま述べたような点にも留意したうえで、エディット・シュタイン、ゲルダ・ヴァルター、エルゼ・フォークトレンダーという、これまで
の現象学史研究において周縁に留まり続けてきた三人に着目する。近年再評価の進む、つまり裏を返せばそれまであまり顧みられなかったミュンヘン・ゲッティ
ンゲン現象学派に属し、女性であったために大学でのキャリア形成に際して大きな困難に直面したこの三人は、「情と社会」と大まかに括ることができる主題に
関して、優れた論考を残している。お定まりのカノンだけを読む目には入ってこないこれらの論考の検討を通じて、現象学の過去に関する私たちの見方に潜む偏
りを浮かび上がらせることを目指したい。
最後に、本シンポジウムと「フェミニスト哲学史」と呼ばれる研究との関係について一言述べておきたい[1]。多様でありうるし、また実際に多様であるカ
ノンの見直しという作業のひとつであるこの動向は、これまでの哲学史研究のなかで周縁化されてきた女性哲学者とその著作に光をあてることで、男性的なもの
という哲学の自己イメージを払拭するという共通の目的を持つ(いうまでもなく、この目的をどうやって実現するのかに応じて、フェミニスト哲学史の内部にも
多様な方向性がある)。三人の女性哲学者の著作を掘り起こし検討する本シンポジウムの各提題は、少なくともこうした研究の基礎として位置づけることもでき
る。だが、いま述べたような目的に対して本シンポジウムがいかなる寄与をどれくらい行いうるのかという点については、おそらくより慎重な議論が必要であ
る。というのも、過去に優れた女性哲学者がいたことの指摘そのものは、そこでの優秀さの捉え方次第では、問題となっている哲学のイメージに揺さぶりをかけ
るどころか、それを強化することにもなりかねないからだ。こうした問題も視野に収めつつも、まずは読まれるべきテクストとその声を忘却から救い出すこと、
このことを本シンポジウムは目指している。
[1] フェミニスト哲学史については、以下の辞典項目が現状をわかりやすく整理している。Charlotte Witt & Lisa
Shapiro, "Feminist History of Philosophy", Stanford Encyclopedia of
Philosophy, Fall 2018 Edition.
https://plato.stanford.edu/archives/fall2018/entries/feminism-femhist/
(企画実施責任者:植村玄輝)
エルゼ・フォークトレンダー(1882–1946)は同時代の現象学運動の主流からはほとん ど黙殺に近い扱いを受け、今日の初期現象学研究においても言及されることの少ない女性哲学者/心理学者である。しかし、ドイツの大学で最も早く博士号を取 得した女性の一人であり、ヤスパースに先立って現象学と精神分析を初めて本格的に結びつけた彼女は、思想内容と歴史的位置づけの両面で興味深い人物であ る。本提題では、特殊な心情としての愛(特にエロティックな愛erotische Liebe)を主題とする彼女の論文「心情(Gesinnung)の心理学についての覚書」(1933年)を主に取り上げる。同論文ではエロティックな愛 を他の心情(Gesinnung)から区別する特徴が論じられ、エロティックなもののセクシュアルなものからの分離、愛される者の価値と愛の間の関係な ど、興味深いテーマが扱われている。背景となっているプフェンダーの心情(Gesinnung)論やヒルデブラント、シェーラー、ジンメルによる愛の扱い にも目を配りながら、フォークトレンダーの愛の現象学の独自性と射程を明らかにしたい。
ゲルダ・ヴァルター(1897–1977)は、フッサールのもとで現象学を学んだ数少ない女性哲学者のひとりである。『哲学および現象学的研究年報』の
第六巻に掲載された彼女の博士論文「社会的共同体の存在論にむけて」(1923)は、現象学を社会哲学へと応用し、共同体について分析することを試みてい
る。しかしヴァルターがこの博士論文を執筆したのは、フッサールではなく、彼女の最初の師であるミュンヘンのプフェンダーのもとである。ヴァルターは「共
同体意識の外的な構成」ではなく、情動体験の共有としての「内的合一(innere
Einigung)」に共同体の本質を見定めていたが、そうした問題構成はフッサールに受け入れてもらえないと考えたからだという(Walter
1960, 244)。
今回の発表ではこの「内的合一」の概念を取り上げたい。共同体の基礎をある種の情動体験の共有に求めるという発想は、すでにシェーラーが『倫理学の形式
主義と実質的価値倫理学』(1913/16)において展開しており、こちらの議論の方が有名でもある。ヴァルター自身も当然シェーラーの議論を意識してい
るが、彼女はシェーラーではなく、プフェンダーの「心情(Gesinnung)」概念を拡張することによって、みずからの「内的合一」という道具立てを手
に入れている。そこで本発表では、シェーラーとプフェンダーの議論と関連づけながら、ヴァルターの「内的合一」の議論の全体像とその独自性を明らかにして
いきたい。
参考文献
・Walter, Gerda: 1923, “Zur Ontologie der sozialen Gemeinschaften”, in:
Jahrbuch für Philosophie und phänomenologische Forschung, Bd. 6, 1-158.
・Walter, Gerda: 1960, Zum Anderen Ufer, Otto Reichl Verlag, Remagen
エディット・シュタイン(1891–1942)の“Die Frau-Fragestellungen und Reflexionen(女性について―問題提起と省察)”(新版全集第13巻)には、彼女が女性の特性、使命、教育、職業などについて論じた数々の講演 の内容や論稿が収録されている。今回のシンポジウムではその中でも、先行研究においては主題的に論じられることが比較的少ない1932年の講演 “Christliches Frauenleben(キリスト教的な女性の生)”を主な手引きとする。この論稿の特徴は、上記のテーマが全て入っているという点、またとくに心情 (Gemüt:感性、感情)という事象との関係で女性の特性、使命が論じられているという点にある。まずは女性の特性、使命、教育、職業についてのこのテ キストの分析の吟味を通じ、他者や共同体に奉仕するものとして女性を捉えるシュタインの考え方の具体的内実を浮かび上がらせる。そして彼女がこのような女 性論を展開する根拠の一端を1922年の論稿“Individuum und Gemeinschaft(個人と共同体)” (新版全集第6巻所収)における心情論、共同体論の考察を通じて探ってみたい。