日本現象学・社会科学会 第35回大会プログラム

会場:東北大学(片平キャンパス)  ※アクセス(新しいウィンドウが開きます))

大会参加費:会員無料、非会員500円(ただし大学学部生は無料です。)

【2018年11月24日(土)】(会場:さくらホール)

09:30 受付開始

10:00~12:30 一般報告・午前の部 (→企画趣旨・概要

A会場(さくらホールA)
司会: 家髙 洋 (東北医科薬科大学) 
  ラインハルト・コゼレックにおける歴史学的人間学
遠藤 健樹 (東北大学大学院)
  二人称的な他者に関するフッサールとシュッツの思想の比較
鈴木 崇志 (立命館大学/日本学術振興会)
  アドルノと他者経験
青柳 雅文 (立命館大学)

B会場(さくらホールB) 
司会: 鈴木 智之 (法政大学)
  技術と自然——ハイデガーの技術論
安田 悠介 (東北大学大学院)
  「第三者の審級」論の由来と行方
木村 史人 (立正大学)
  技術的媒介と想像力——ポスト現象学における想像力の位置づけ
古賀 高雄 (神戸大学大学院)


12:30~13:30 昼休み・委員会
13:30~14:00 総会

14:15〜15:00 一般報告・午後の部(→企画趣旨・概要

A会場(さくらホールA
司会: 家髙 洋 (東北医科薬科大学) 
  法感情の現象学
横山 陸 (日本学術振興会)

B会場(さくらホールB
司会: 鈴木 智之 (法政大学)
  町があるとはどういう状態なのか ――震災経験が伝える死を出発点にして
奥堀 亜紀子 (大阪大学/日本学術振興会)



15:30~18:00  シンポジウム「震災以後の東北を生きる:その経験を記憶し記述するということ (→企画趣旨・概要   
司会: 佐藤靜(大阪樟蔭女子大学) 提題者: 山内 明美(宮城教育大学)
      渡部 純(福島県立高校教員・東京大学大学院総合文化研究科院生)
      郭 基煥(東北学院大学)
特定質問者: 松本 行真(東北大学)
18:30~ 懇親会(レストラン萩) (会費:一般4000円、非常勤3000円、学生2000円)

 

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企画趣旨・概要

【一般報告】

1 ラインハルト・コゼレックにおける歴史学的人間学

 遠藤 健樹 (東北大学大学院)

本発表では、歴史学者ラインハルト・コゼレックにおける歴史学的人間学の特徴を、彼の師である哲学者カール・レーヴィットとの関係に注目して整理してみたい。
 コゼレックは戦後ドイツにおける著名な歴史学者のひとりであるが、ハイデガー学派の哲学者たちによる歴史学理解から影響を受け、みずからの歴史理論を作り上げたことでも知られる。コゼレックはみずからの歴史理論をしばしば「人間学」と称して、ガダマー流の解釈学的な歴史学理解から意識的に距離をとろうとしていたらしい。この間の事情を整理するため、本発表ではコゼレックの歴史学的人間学にふくまれる「対立概念」、とりわけ「非対称的対立概念(asymmetrische Gegenbegriffe)」と呼ばれるものが、レーヴィットの哲学的人間学の影響下にあったことに注目したい。

2 二人称的な他者に関するフッサールとシュッツの思想の比較

鈴木 崇志 (立命館大学/日本学術振興会)

 本報告の目的は、二人称的な他者としての「君(Du)」に関するフッサールとシュッツの思想の比較を通じて超越論的現象学と現象学的社会学の関係を再検 討し、そこから「君」の現象学を確立するための建設的な議論を展開することである。そのために本報告は、フッサールが1932年に執筆した草稿「伝達の共 同体の現象学」(Husserliana, Bd.XV, Text Nr. 29)と、シュッツが同年に公刊した『社会的世界の意味構成』を主に解釈する。その際に特に論点となるのは、フッサールが「他我(alter ego)」と「君」を区別することによって独自の共同体論を展開していることである。また本報告では、解釈を補完するために、シュッツによる一連のフッ サール読解(in: Alfred Schütz Werkausgabe Bd. III.1)、および近年新たに公刊されたフッサールの草稿集(Husserliana XX; XLI)が参照される。

3 アドルノと他者経験

青柳 雅文 (立命館大学)

 フランクフルト学派の代表的人物であるTh・W・アドルノは、〈非同一的なもの〉の思想を主張したことで知られている。本報告では、現象学の主要問題のひとつである他者経験の問題について、アドルノの視座から検討する。
 そもそも他者については、〈非同一的なもの〉の問題のひとつとして考えることが可能である。だがこれが他者経験、他の自我の問題となった場合、アドルノの立場からはどのように考えられるのか。彼の現象学研究を手がかりとして考察することになる。

4 技術と自然——ハイデガーの技術論

安田 悠介 (東北大学大学院)

 科学技術の否定宣言であって時代錯誤の無用の長物である、と理解されることもしばしばである、ゲシュテルを鍵語とするハイデガー技術論を、しかし、もっ ぱら世界内存在の哲学のひとつの続行と理解したい。「正しい」とはいえ「本質には達していない」とされる技術の「道具的」、「人間学的」規定、一見目立た ない、テクネー/ピュシスに遡り語られる技術と自然の関係、ゲシュテルの過程全体に対する「円環」、「循環」という特徴付け。主にこれらの解釈を通じ、ゲ シュテルというひとつの開示様式を、人間のある種の自然化それ自体と理解し、その意味を探りたい。自然の搾取や「技術決定論」とは違うゲシュテルの相貌を 提示したい。

5 「第三者の審級」論の由来と行方

木村 史人 (立正大学)

 社会学者の大澤真幸が、規範(意味)、宗教、芸術、文学などまで、様々な現象を分析する装置として古今の思想家の洞察を基に構築したのが、「第三者の審 級」という独自の概念である。「第三者の審級」はきわめて広範な射程を有する有用な概念であるといえるが、多様な議論の文脈で語られるがゆえに、その全容 にはある捉え難さを有しているようにも思われる。
本報告で試みたいのは、「第三者の審級」論を検討し、再構成することである。そこで、「第三者の審級」について言及される、二つの文脈、すなわち大澤独自 の概念である「求心化作用」と「遠心化作用」が複数連接し、規則や意味が生成する場面と、ウィトゲンシュタイン‐クリプキへの応答として、すでに存立して いると考えられる規則を取得する場面、すなわち意味世界へと参入する場面とが、いかに関係するのかを手がかりとして検討したい。

6 技術的媒介と想像力——ポスト現象学における想像力の位置づけ

古賀 高雄 (神戸大学大学院)

 技術開発に際して、まだ存在しない技術に関する「神話」が大きな力をもつことがある。それは、研究開発への投資や制度的整備をもたらしたり、新たな倫理 的問題を開いたりする。ポスト現象学における技術の媒介理論は、技術が、人間の知覚や行為を媒介すると考える。そうすると、想像的に語られる技術が、経済 的・政治的・社会的なものを取り集めて再構成する働きも一種の媒介であると呼べそうである。だが、それは、現に存在する技術ではない。だとすれば、想像上 の技術は、媒介をもつのだろうか、もたないのだろうか。このことは、ポスト現象学における想像力の位置づけの問題を提起する。以上より、本発表では、ポス ト現象学における想像力の位置づけについて考えてみたい。

7 法感情の現象学

横山 陸 (日本学術振興会)

 現代英米哲学を代表するマーサ・ヌスバウムは『感情と法』(2004)において、法の感情的な起源を明らかにしようと試みている。これは感情の社会的次 元を示す研究として注目に値するが、法と感情の関係については、すでにドイツ語圏の哲学者ヘルマン・シュミッツが『哲学体系』第三巻(1967- 1978)において、すぐれた現象学的分析を残している。両者を比較して興味深いのは、ヌスバウムが個人の法感情から出発して、アダム・スミスの共感論を モデルに、その間主観性を確保しようとするのに対して、シュミッツは雰囲気としての共同感情が個人を襲うことによって、法感情が個別化されると考える点で ある。前者の感情分析は個人主義的アプローチ、後者の分析は共同体主義的アプローチと呼ぶこともできるだろうが、本発表では、こうした両者の分析を比較し ながら、私たちは法感情にどの程度の客観性を期待することができるかという問いに答えたい。

8 町があるとはどういう状態なのか ――震災経験が伝える死を出発点にして

奥堀 亜紀子 (大阪大学/日本学術振興会)

 本報告は、報告者が石巻市を中心におこなった現地調査の成果に基づいている。具体的に、まず報告者がおこなった現地調査について説明をし、つづいて現地 調査によって見えてきた「震災経験が伝える死」を報告する。死について話ができないこと、東日本大震災はその事実をはっきりと私たちに認識させる出来事で あった。しかも死について語ることを阻んでいるのは、誰かとの関係の断絶でもある。関係が断絶された誰かとは一般的に第二人称の死によって語られることが 多い。だが震災を経験した当事者にとっての第二人称は、通常ならば第三人称の死の範囲に含まれる者にまで拡がっている可能性がある。そこで浮上してきた問 いが「町があるとはどういう状態なのか」である。震災経験が伝える死を出発点とするとき、私たちは「町がある」と言える状態をどのように考えることができ るだろうか。

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【シンポジウム】 「震災以後の東北を生きる:その経験を記憶し記述するということ 」                      

司会: 佐藤 靜(大阪樟蔭女子大学)

提題者: 山内 明美(宮城教育大学)
渡部 純(福島県立高校教員・東京大学大学院)
郭 基煥(東北学院大学)
特定質問者: 松本 行真(東北大学)

  東日本大震災から七年が過ぎてもなお、震災に伴って起きた出来事としての津波と原発事故からの復興はまだその途上にある。原発事故の内実は、未だに明らかになっているとは言い難い。地震・津波の被災地域の復興の現状は、今やほとんど報道もされずなかなか知ることができないものとなっている。こうした状況から、震災記憶は風化しつつあるともいわれる。
 こうした現状について、生きられた経験を問う学としての現象学は何ができるだろうか。現象学の根幹をなす「事象そのものへ」というテーゼがある。では、その〈事象〉とは何か。これまで、現象学が重きを置いてきたのは、〈一人称の経験〉と〈生活世界〉との関係である。東北について論じる際、その〈一人称の経験〉や〈生活世界〉について問う時、これまでの現象学の枠組みはどこまで有効なのだろうか。都市と漁村・農村で暮らす人々のそれはいかにして記述され、論じられるべきなのか。震災から7年が経過した今、震災以前からの東北の暮らしとそれ以後の時間的な連続性を踏まえつつこの点を掘り下げることを本シンポジウムにて試みたい。
 そこで、本シンポジウムでは東北における暮らしの経験を聞き取り記録してきた三氏にご登壇いただきその実際についてお話を伺う。〈東北〉を研究テーマの中心に据え、歴史社会学をベースとしながら領域横断的な研究を進めて来られた山内明美氏には、南三陸をはじめとする沿岸部の暮らしや〈東北〉についてご提題いただく。高校の社会科教員教員であり、大学院で哲学・思想史研究をしておられる渡部純氏には、福島県の教員としてそして福島で暮らす者としての震災当時とその後、複層的な現実の諸問題の間における引き裂かれの経験についての提題をいただく。これまで現象学的社会学の知見を応用しながら差別問題について研究する一方、震災以降は被災地における外国出身者に関わる諸問題について論じてきた郭基煥氏には、震災直後から見られた「復興ナショナリズム」に対して、社会内のantagonism(敵対性)(ラクラウとムフ)の自覚に基づく「地域再生」の在り方について論じていただく。特定質問者の松本行真氏には、ご専門の都市社会学および被災地域の実地調査に携わられたご経験をもとに、三氏の報告へのコメントをいただく。以上から、フロアとの議論を通じて、震災経験の記憶と記述そのありかたについて問う場としたい。

 (企画担当委員:郭 基煥 ・ 佐藤 靜)

各提題趣旨

〈三陸世界〉‐復興幻想と失われゆく生業/風土

山内 明美(宮城教育大学)

 東日本大震災の翌年、復興後の被災地視察のため、私は北海道奥尻町を訪れた。奥尻町は、1993年の北海道西南沖地震からすでに25年が経過している。そこで「奥尻は復興不景気が続いています。」と語ったのは当時の町総務課長だった。「復興不景気」-それは気持ち悪さと語義矛盾を孕んだ奇妙な言葉だった。
  2012年にその言葉を聞いた時、それはそのまま、私たちの未来なのだと漠然と思った。莫大な国家予算が投下された顛末の、恐ろしいパラドックスである。
 東日本大震災後の復興過程を経て、三陸沿岸部の生業/生活世界は壊滅するだろう。豊かな漁場が育んできた生業世界の三陸に、「後期近代」が直撃している。
 南三陸の現場から、〈三陸世界〉を考える。

 

危機において思考することに意味はあるのか?―原発事故下で引き裂かれた私

渡部 純(福島県立高校教員・東京大学大学院 )

 原発事故直後、私は福島市内の勤務校で避難所運営に従事しながら、放射能に汚染された居住地から避難すべきか否か不安と葛藤に襲われていた。しかし、真に恐ろしかったのは、事故が収束しないまま予定通り学校を再開するという決定が下されたときだった。異常事態のさなかに教え子を被ばくさせてでも正常化を図ろうとする動きに、教員としての私の心が引き裂かれたのである。当時の私は、被ばくの恐怖に周囲が沈黙する中、何をなすべきか必死で考え続けて格闘していた覚えがある。その私の心に何度も去来したのが、次のアーレントの言葉だった。「ここぞという瞬間には、それ〔思考〕がものをいって破滅を防ぐかもしれない。少なくとも自己の破滅だけは」。しかし、その格闘は自分の無力さと負い目を痛感させられるばかりだった。いったい危機において思考することなどどれほどの意味があったというのか。原発事故から7年を経た今、あらためてその意味を考えてみたい

 

〈政治的なるもの〉と「復興」―ラクラウとムフの「敵対性」概念から考える

郭 基煥(東北学院大学 )

 ラクラウとムフによれば、一般に私たちが社会と呼んでいるものの中に敵対性がないことはあり得ない。災害は一般にそれまで不可視化されていた、この敵対性を顕在化させたり、新しい敵対性を構成したりする危機/機会でもある。一方で、東日本大震災以降、社会の統合性を強調する美名化の言説に溢れていた。また「通常状態」に戻ったあとも、社会内の敵対性の認識に基づく「闘技的闘争」(ムフ)を欠いたまま、コーポラティズム的な国家観が、その綻びを覆い隠すように国家間の敵対性を強調しつつ、政治の中枢から社会全般に広く浸透しているように見える。仮にこうした見立てが的を外していないなら、「被災地の復興」の担い手は「闘技的闘争」の「主体」であるような存在ではないか。中央やシステムと闘うパトスを産出するプロセスなくしては、復興される地域社会そのものが消失してしまうのではないか。


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