会場:國學院大学渋谷キャンパス6号館
日時:2024年12月7日(土)
大会参加費:会員無料、非会員500円(ただし大学学部生は無料です。)
10:00-10:45
マックス・シェーラーにおける「自己愛」と「他者への愛」
渡辺朱音(筑波大学)
司会:榊原哲也(東京女子大学)
10:45-11:30
動機づけ理由と正当化:現代行為論とシュッツ現象学
木村正人(東洋大学)
司会:宮田賢人(小樽商科大学)
11:30-12:15
アニメ聖地巡礼経験の現象学
胡 景峰(立命館大学)
司会:宮田賢人(小樽商科大学)
10:00-10:45
授業における生徒の言葉に依らずに促される行動について――授業記録の現象学的分析から
松本佳菜子(東京女子大学)
司会:鈴木智之(法政大学)
10:45-11:30
個別性を扱う研究における普遍性についての一考察
近藤菜月(名古屋大学)
司会:鈴木智之(法政大学)
11:30-12:15
技術の文脈における関係的自律論の統合的発展-試論
大家慎也(久留米工業高等専門学校)
司会:小田切祐詞(神奈川工科大学)
12:15-13:15 昼休み・委員会(6号館6202教室、委員のみ)
13:15-13:45 総会(6号館6B11教室)
14:00-16:30 シンポジウム
「人種差別に抵抗する現象学と社会学」 (6号館6B11教室)
提題者:ヘレン・ンゴ(ディーキン大学)
金南咲季(椙山女学園大学)
郭 基煥(東北学院大学)
司会:稲原美苗(神戸大学)
小手川正二郎(國學院大学)
16:45-17:30
同質性を通じたクィアな自己変容の構造――『全体性と無限』における「エロスの現象学」 の読解を通じて――
古怒田望人(工学院大学)
司会:屋良朝彦(長野県立看護大学)
17:30-18:15
関係における喪失——曖昧で非対称な喪失
中 真生(神戸大学)
司会:屋良朝彦(長野県立看護大学)
16:45-17:30
ひきこもりという現象をときほぐす――教育と福祉のはざまで――
石神真悠子(東洋英和女学院大学)
司会:徳久美生子(武蔵大学)
18:30- 懇親会
会場: カフェラウンジ若木が丘(國學院大學渋谷キャンパス内)
懇親会費: 一般5000円、非常勤・学生3000円
第41回大会(2024年度) シンポジウム企画趣旨・各報告概要
【シンポジウム「人種差別に抵抗する現象学と社会学」企画趣旨】
BLM運動の後も頻発する黒人差別やコロナ禍でのアジア系の人々へのヘイトクライム、警察によるレイシャル・プロファイリングや在日コリアンへの差別的言説など、今日においてもなお人種差別は国内外で喫緊の課題であり続けている。
ある社会集団が「よそ者」とみなされ、類型化されるプロセスについていち早く現象学的な観点から分析したのはシュッツであった。近年では、批判的人種研究が人種を生物学的・遺伝的なものではなく、社会的・歴史的に構築されてきたものとして分析してきたが、そのような理解が浸透した後でもなお人種が人々に知覚され、往々にして無自覚な人種差別的な反応につながってしまうのはいかにしてかを考察するために、現象学的な分析に再び注目が集まっている。例えば、アルコフやヤンシーは、メルロ=ポンティやファノンに立ち戻りつつ、反省的な思考に先立つ身体性の次元で、他者を「人種化する」(racialize)知覚やそれに伴う人種差別的な身体的所作、「人種差別」と指摘された際のマジョリティの典型的な反応を分析してきた(Alcoff 2006; Yancy 2008)。日本でも郭基煥が『差別と抵抗の現象学――在日朝鮮人の〈経験〉を基点に』(2006年)で現象学および現象学的社会学の知見を用いて、在日朝鮮人の経験を分析したのを皮切りに、日本国内の人種的マジョリティにおける人種化する知覚に対しても現象学的なアプローチを用いた分析が試みられつつある(池田・小手川2021)。
こうした背景のもと、本シンポジウムでは、多様な形でなお根強く存在する人種差別に対して、現象学と社会学がいかにして迫り、人種差別に抵抗する方途をいかに提示しうるかを検討するために、ヘレン・ンゴ氏(ディーキン大学)、金南咲季氏(椙山女学園大学)、郭基煥氏(東北学院大学)にご登壇頂く。ヘレン・ンゴ氏は、差別する側の前反省的な知覚習慣や身体的所作を「人種差別的な習慣」という形で分析した『人種差別の習慣――人種差別と人種化された身体の現象学』(Ngo 2017=ンゴ2023)の著者であり、人種の批判的現象学を代表する研究者の一人である。教育社会学を専門とする金南咲季氏は、多様なルーツをもつ子どもたちが接触し継続的な関係を育みうる「コンタクト・ゾーン」として学校を捉え直すことを提起している(金南2019)。『差別と抵抗の現象学』の著者である郭基煥氏は、様々な時代にわたって繰り返される、大災害などの非常事態下における外国人犯罪流言について分析し、『災害と外国人犯罪流言――関東大震災から東日本大震災まで』(松籟社)を昨年刊行している。それぞれの専門分野で人種差別と通じる主題について長く考えてこられたお三方の提題と参加者とのディスカッションを通じて、日本で人種差別に抗しつつ人種について思考するためにいかなる視点や展望が必要かを考えたい。
企画:稲原美苗(神戸大学)
小手川正二郎(國學院大学)
文献
Alcoff, Linda Martín. 2006.Visible Identities: Race, Gender, and the Self, Oxford and New York: Oxford University Press.
Ngo, Helen. 2017. Habits of Racism: A Phenomenology of Racism and Racialized Embodiment, Lanham: Lexington Books.〔=ンゴ、ヘレン (2023)『人種差別の習慣――人種化された身体の現象学』小手川正二郎・酒井麻依子・野々村伊純訳、青土社〕
池田喬・小手川正二郎 (2021)「『人種化する知覚』の何が問題なのか――知覚予期モデルによる現象学的分析」、『思想』1169号、岩波書店、68-87頁
郭基煥(2006)『差別と抵抗の現象学――在日朝鮮人の〈経験〉を基点に』、新泉社
郭基煥(2023)『災害と外国人犯罪流言――関東大震災から東日本大震災まで』、松籟社
金南咲季(2019)「「外国につながる子ども」にふれる」、ケイン樹里安・上原健太郎編著『ふれる社会学』、北樹出版、83-94頁
Yancy, George. 2008. Elevators, Social Places and Racism: A Philosophical Analysis, Philosophy & Social Criticism 34(8), 843-876.
【シンポジウム提題趣旨】
Home and its refusals: Tensions of flesh and place in the racialised and diasporic subject
Helen Ngo (Deakin University)
This lecture explores the phenomenon of alienation as it figures in the often-coinciding experiences of racialisation and diaspora. Working through the sites of body and home, and the body as home, this talk seeks to draw out some of the tensions that inhere in the racialised and diasporic condition. Part 1 examines racialised alienation through the concept of bodily confiscation and expropriation, and considers what it is to have one’s body taken away through the processes of racism. At the same time, this account will be complicated by an examination of the ways in which our bodies are never really our own to begin with; whether through accounts of the sociality of the body, or through a consideration of the body’s constitutive uncanniness and thingliness, as advanced by Anne Anlin Cheng in her theorisation of the “yellow woman”. Part 2 moves on to explore alienation in the context of diaspora, where home often figures compellingly for those who have experienced loss and displacement, or who have inherited the affects of its trauma. Working through the significance of home in the face of its refusal, I then turn to the tensions that arise when diasporic home-making takes place in settler-colonial contexts, and consider the complicities and solidarities that migrant-settlers can become enfolded in, and the modes of refusals that these demand.
家とその拒絶――人種化されディアスポラ化した主体における肉体と場所の緊張関係
ヘレン・ンゴ(ディーキン大学)
本講演では、人種化とディアスポラという、しばしば重なり合う経験に表れる疎外現象について探究する。身体と家、そして家としての身体という観点から、人種化されディアスポラ化した状況に内在する緊張関係を明らかにする。第1部では、身体の押収と収用という概念を通して、人種化による疎外について検討し、人種差別のプロセスを通して身体が奪われるとはどういうことかを考察する。同時に、この議論は、そもそも私たちの身体が決して自分だけのものではないという点――身体の社会性に関する議論を通してであれ、アン・アンリン・チェンが「黄色人種の女性」について理論化する際に進めた、身体の構成的な不気味さや物性に関する考察を通してであれ――を吟味することでより込み入ったものとなる。第2部では、ディアスポラの文脈における疎外について探究する。そこでは、喪失や退去を経験した人々やトラウマの影響を受け継いだ人々にとって、家がしばしば有無をいわさぬものとして現れる。家の拒絶に直面した際の家の重要性を検討し、ディアスポラにおける家づくりが入植植民地化の文脈で行われる際に生じる緊張関係に目を向け、移民の入植者が巻き込まれかねない共犯関係や連帯、そしてそれらに求められる拒絶の様式について考察する。
学校は人種差別にいかに対峙できるか――再生産と抵抗の諸相と課題
金南咲季(椙山女学園大学)
本報告では、関西圏および東海圏における学校の事例を通じて、「学校は人種差別にいかに対峙できるか」という問いについて検討したい。
一般的に、義務教育段階の学校は、居住地と年齢を共通項に「共に投げ込まれ」(Massey 2005=2014)、他者との継続的な共在を迫られる稀有な空間である。当然ながら、学校は学校外の社会と独立ではない。異なる社会文化的背景をもつ人々が非選択的な関係を前提に集うなかでは、差別が様々な形態をとりながら立ち現れ、巧妙に維持・増殖されていくことも少なくない。そこには、明白で意図的な排外意識だけでなく、善意や熱意に支えられた無意図的な差別も含まれる。一方で、学校はそうした性質ゆえに、そうでなければ出会わなかったかもしれない他者を出会わせ、耳を傾け、相互に変容することを促すことを通じて、社会に漂う差別を切り崩していく砦にもなり得る。その意味で、学校は差別を維持・再生産するエージェントにも、差別に抗するエージェントにもなり得る両義性を抱えていると言える。本発表では、こうした学校の両義性を事例に則して描き出しつつ、今後、人種差別に対峙する場として学校をいかに構想していけばよいのか、共に考える契機を提示したい。
集団的妄想の社会空間――関東大震災時の朝鮮人犯罪流言の信受と記憶/忘却を中心に
郭 基煥(東北学院大学)
東日本大震災や能登地震の際にもそうであったように、日本では現在も大規模災害が発生するたびに、外国人が犯罪をしているとする流言が頻繁に拡散している。今後の災害時も拡散することが予想される中で、本報告では、外国人を標的とした流言が最大規模で拡散し、集団的殺害を含む悲惨な暴力を帰結した関東大震災時の流言を事例に、人々がどのような状況で、どのような情報として流言を信受したか、また信受の結果、できあがった社会空間――間主観的世界――はどのようなものであったかを、震災直後に書かれた子供たちの作文を元に探ると同時に、復興が叫ばれる中で、未曽有の虐殺がどのように記憶され、あるいは忘れ去られていったかを懸賞作文などを元に探りたい。
【一般報告】
1 マックス・シェーラーにおける「自己愛」と「他者への愛」
渡辺朱音(筑波大学)
本発表の目的は、中期シェーラー思想における「自己愛」と「他者への愛」の等根源性に着目し、自己を真正に愛することと、他者を人格的に愛することとの関係を整理することである。周知の通り、シェーラーにおいて愛の作用は、他のあらゆる作用に先立ち、価値志向作用を方向付ける原作用として規定されている。そして、自己愛の真正化は、価値認識の真正化および深化に密接に結びついている。本発表では、自己愛と価値認識の真正化の過程で、自己中心主義的な態度が克服されることを示し、自己愛と他者への愛とが接続される内実を明らかにする。この試みは、ナルシシズムや利己主義から、自己受容や自己肯定感まで、いまや多義的な意味をもつ「自分を愛すること」の本質と意義に対する、シェーラー現象学からの応答であると言えよう。
2 動機づけ理由と正当化:現代行為論とシュッツ現象学
木村正人(東洋大学)
現象学に依拠し、独自の行為論を展開したシュッツは、行為の遂行中にも主観的に意識されている目的動機と、反省的まなざしによって特定される理由動機を区別した。本報告では、この区別を今日のメタ倫理学で共有されている二つの理由概念、すなわち動機づけ理由と規範理由の区別と突き合わせることで、行為に関する現象学的思考が現代行為論の布置状況のなかで、どのような地位を占め得るかを検討する。
動機づけ、あるいは理由概念を適切に区別することによって得られるのは、行為の説明理論と正当化理論である。現代行為論では、行為の正当化問題を、欲求という心的態度に訴えることによって説明しようとする立場が主流であるが、このような見方は、すべきことについての信念とやりたいことへの欲求の間に葛藤が生じること、すなわち、意志の弱さをうまく説明できない。日常的行為者による振舞いを記述する現象学者の分析は、この点でどのような洞察を示していたか探り、現代行為論への貢献を考えたい。
3 アニメ聖地巡礼経験の現象学
胡 景峰(立命館大学)
アニメ聖地巡礼は1990年代後半から現れた、アニメ作品の舞台となった地域への探訪行為である。これまで、アニメ聖地巡礼現象は地域振興、文化政策などの文脈で研究されることが多かったが、その現象に対する哲学・現象学的な省察はいまだに行われていない。
アニメ聖地巡礼者の巡礼体験を一種の独立した経験として捉えると、それはアニメ作品世界と現実世界とを連接・補完する、非常に独特な経験というべきである。本研究は、こうした特殊な経験の構造、構成を検討した上で、その特質を中心的に分析していきたい。
本研究の意義は、決してメディア研究やサブカルチャー研究の領域に限定されるべきものではない。アニメ聖地巡礼経験の現象学的分析は、我々がいきているメディア融合する、リアリティが交錯する現代社会の体験を理解するための、一つの重要な手がかりにほかならない。
4 授業における生徒の言葉に依らずに促される行動について――授業記録の現象学的分析から
松本佳菜子(東京女子大学)
筆者は授業の可能性を探る、生徒の行動を理解するための視点を得ることを目標に、中学校において授業観察を行い、授業記録を現象学的に分析することで、授業中の生徒の体験の意味や成り立ちを明らかにする研究を行っている。授業観察を行う中で、生徒たちが授業者の指示やクラスメイトとの相談なしに行動を起こす場面が数多く見られた。本報告では、このような暗黙の裡に取れる行動を現象学の思索を手掛かりに考察する。その結果、言語に依らない生徒の行動は、生徒の教室という場における在り方、クラスメイトや授業者との状況の共有、身体の構えといった考え方によってその成り立ちを説明できることが明らかになる。
5 個別性を扱う研究における普遍性についての一考察
近藤菜月(名古屋大学)
個別事例を扱う質的研究においては,「分析結果が普遍的な妥当性をもつのか」という疑問に対して、さまざまな応答が試みられてきた。そうした議論において、普遍性という言葉はしばしば一般性と同様の意味で用いられており、事例は類型一般の一例として扱われる。ただし、個別事例の分析においてはこれまで、個別性の探求が、(類型的差異を越境して)他者の経験を了解可能にするという、もう一つの普遍性を持ち得ることも示唆されてきた。本報告では、個別性を掘り下げる研究は、類型的な把握と、類型的差異を超えた意味を提示するという二つの側面を持ち得ることを指摘し、両者の成立の学問的意義を検討したい。
6 技術の文脈における関係的自律論の統合的発展-試論
大家慎也(久留米工業高等専門学校)
これまで関係的自律論(Mackenzie & Stoljar 2000; Stoljar 2022など)は、一定の社会規範や制度、人間相互の関係性を人格が受け入れて生きる際の、適切な能力発揮の精査において成果を上げてきた(例:抑圧的社会化の分析)。しかし当該研究は技術を明確な主題としてこなかった。技術は社会規範や制度と相互に、また協同して機能すること(Lessig 1998など)、そしてそのことが問題状況を生み出しうることを考えると(例:依存)、技術の分析は関係的自律論において統合的に発展されるべきである。本研究は以上の研究の試論として、問題状況と関連先行研究を整理し、統合的発展の方法論と見通しを提示する。
7 同質性を通じたクィアな自己変容の構造――『全体性と無限』における「エロスの現象学」の読解を通じて――
古怒田望人(工学院大学)
E・レヴィナスの現象学は、他者との「差異」を主題にしたとみなされている。事実、彼は主体に対して現れてくる他者のありようを「外傷」という異質さから特徴づけ、先行研究もこのような観点から彼の哲学を論じてきた。
他者との「差異」を強調するレヴィナスに対して、近年、彼の現象学が、自他が混ざり合う「同質性」の経験を捉え損ねているという批判が向けられている。例えば、J・ロゴザンスキーは、「「他者」を「私」から絶対的に分離されたもの」だと論じるレヴィナスの議論に抗して、「私」が「他者」に「同一化」する可能性、「他者」が「親密な内的他者」となる可能性について示唆している。
本発表では、このような先行研究の批判に対して、『全体性と無限』(1961)第四部においてセクシュアリティが重点的に記述される「エロスの現象学」を主に読解することで、レヴィナス現象学の内に「同質性」の観点を見出すことを試みる。本発表では特に、「エロスの現象学」で言及される「女性化」概念に注目することで、そこに「同質性」を通じたクィアな自己変容の構造を見出したい。
8 関係における喪失——曖昧で非対称な喪失
中 真生(神戸大学)
本発表では、関係における喪失と呼べるもののうち、とくに離婚、若者を中心とする恋人との離別、冷え切った関係の三つに限定して喪失の経験を考察する。関係の喪失は、第一に、死別による喪失と比べた場合、何重もの意味で曖昧な喪失なのが特徴である。別れた相手は死別と異なり生きており、何らかの関わりが継続することもあるため、何をどの程度失ったのか、また完全に喪失したのかが曖昧である。また、喪失の過程がいつ始まり、いつ完了するのかも曖昧である。第二に、関係における喪失の特徴は、2人の当事者間に喪失経験の非対称性が著しい点である。別れを先に告げる側と、告げられ驚き抵抗する側とに分かれることが多いからである。発表では、関係における喪失の特徴を考察し、他の喪失との差異と連続性を踏まえた上で喪失経験全体の内に位置づけることを目指す。
9 ひきこもりという現象をときほぐす――教育と福祉のはざまで――
石神真悠子(東洋英和女学院大学)
不登校やひきこもりが社会問題・教育課題となって久しい。ひきこもりは”現象概念”と言われるように、その背景や要因は様々で、ひきこもりの問題に悩む人々への支援も、医療、福祉、教育等、多岐にわたる。本発表では、行政における不登校・ひきこもりの支援施策の変遷に焦点をあて、日本社会における不登校・ひきこもり問題の捉えられ方について、特に教育との関わりを中心に考察したい。
大会会場について
会場:國學院大学(渋谷キャンパス) 所在地 〒150-8440 東京都渋谷区東4-10-28
https://www.kokugakuin.ac.jp/about/information/campus_shibuya
一般報告A会場・シンポジウム・総会……6号館6B11教室(地下1階)
一般報告B……6号館6B13教室(地下1階)
会員控室……6号館6201教室(2階)
委員会……6号館 6202教室 (2階)
懇親会場: カフェラウンジ若木が丘(國學院大學渋谷キャンパス内)
懇親会費は以下を予定しています:5000円(一般)、3000円(非常勤・学生)
参加人数を事前に把握する必要がございますので、参加をご希望の方は、11月9日までに以下のURLからアンケートにご回答ください。それ以降も、11月下旬まではご参加を受け付ける予定ですが、できるかぎり期間内の回答にご協力をお願い申し上げます。
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeQUepfFM6XtzEHbgrNO5Rze25VcsFT5bxZ3dwQfofzZS2Lmg/viewform
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