日本現象学・社会科学会 第38回大会プログラム

会場:Zoomオンライン会場

大会参加費:会員無料、非会員500円(ただし大学学部生は無料です。)
【非会員の方へ】 非会員の方は事前に参加のお申し込み(500円の参加費の支払いを含む、ただし学部生は無料)が必要です。申し込みにはPeatixというサービスを利用します。下記URLから行ってください。
https://jspss38.peatix.com/view
参加申し込み期限は12月2日24時までです。大会のZoomURLとパスコードは大会2日前にお知らせします。

【2021年12月5日(日)】(会場:Zoomオンライン会場)

10:30 開場

10:45~12:15 一般報告 (→企画趣旨・概要

 

10:45-11:30 (報告1・2) ※同時並行のパラレルセッション方式で開催します。各室への移動方法は当日ご案内します。

ルーム1

ルーム2

司会:鈴木崇志(立命館大学)

司会:小田切祐詞(神奈川工科大学)

法的確信(opinio juris)の生成過程の現象学的解明:

フッサール現象学の法理論への一応用として

同性愛者のアイデンティティ研究における現象学的視座の必要性:

「本質主義対構築主義」を越えて

宮田賢人(小樽商科大学)

島袋海理(名古屋大学大学院)

 

11:30-1215 (報告34) 

ルーム1

ルーム2

司会:中真生(神戸大学)

司会:榊原哲也(東京女子大学)

初期レヴィナスにおける性の記述の問題:その規範性と可能性をめぐって

「心の理論」論争における相互作用説の新たな展開可能性

古怒田望人(大阪大学人間科学研究科)

田中奏タ(千葉大学大学院)

 

12:30~13:30 委員会(※委員のみ)

13:40   総会開場

13:45~14:15 総会(※会員のみ)

14:30-15:15 一般報告・午後の部(報告5・6)      

ルーム1

ルーム2

司会:直江清隆(東北大学)

司会:木村史人(立正大学)

ポスト現象学の批判的検討:

技術の使用における反省的振る舞いという観点から

ひきこもりをめぐる現象学的解釈試論

大家慎也(無所属) 

小田切建太郎(立命館大学) 

 


15:30~18:00  シンポジウム「現象学とエンパワメント」 (→企画趣旨・概要    
司会: 池田喬(明治大学)・稲原美苗(神戸大学)
提題者: 石田絵美子(兵庫医療大学)
宮原優(立命館大学)
前田拓也(神戸学院大学)

 

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企画趣旨・概要

【一般報告】

1 法的確信(opinio juris)の生成過程の現象学的解明:フッサール現象学の法理論への一応用として

 宮田 賢人(小樽商科大学)

  「社会的慣行は、いつまたどのようにして法的拘束力を備えるか、すなわち慣習法となるか」という問いは、古くから、慣習法論における主要問題の一つであった。この問いに対する典型的な応答は、「当該慣行が、(a) 共同体において継続的に反復されているという客観的要件と、(b)共同体のメンバーが当該慣行を法として意識しているという主観的要件(法的確信 opinio juris)の二つを満たした場合」というものである。では、より具体的に、ここでいう「法的確信」とは、どのようなものであり、またそれはいかにして生成するのか。本報告では、主にフッサールの内的時間意識の現象学的分析を参照しつつ、法的確信がどのような時間意識の構造に基づけられているか、そして、慣行の継続的反復を通じて、それがどのように生成するのかを論ずる。 

2 同性愛者のアイデンティティ研究における現象学的視座の必要性:「本質主義対構築主義」を越えて

島袋海理(名古屋大学大学院)

 同性愛者のアイデンティティ研究をめぐっては,アイデンティティを変更不可能なものとして捉えるか,歴史や文化によって構成されるものと捉えるかをめぐって論争が展開されてきた。欧米ではこうした論争は「本質主義対構築主義」論争(essentialism vs.constructionism)として整理されることが多いが,本報告では「本質主義対構築主義」論争が日本においてどのように展開されていったのかを整理する。その整理をもとに,本質主義的立場も構築主義的立場も同性愛者のアイデンティティを理解するうえで課題があることを指摘し,現象学的視座にもとづいたアイデンティティ研究が必要であることを明らかにする。

3 初期レヴィナスにおける性の記述の問題――その規範性と可能性をめぐって――

古怒田望人(大阪大学人間科学研究科)

  本発表の目的は、初期レヴィナス思想の主題の一つであることが最新の資料や研究から明らかとなってきた性の記述の規範性と可能性を浮き彫りにすることにある。そこで次の二点を証明したい。第一に、初期レヴィナスの性の記述がその記述の筋立てにおいて生殖を一義とする家父長的な異性愛者男性の観点と切り離せないという規範性である。第二に、この異性愛者男性の観点に根差したレヴィナスの意図に反して、初期レヴィナスの性の記述がこの観点を超過する射程を含む可能性である。本発表は、フェミニズムや性に関わる思想、哲学の態度を引き受けつつ、初期レヴィナスの性の記述の規範性か可能性どちらかに偏る傾向にある先行研究を見直すことでレヴィナスの記述の規範性と可能性を同時に分析する点に特徴がある。

4 「心の理論」論争における相互作用説の新たな展開可能性

田中 奏タ(千葉大学大学院)  

 私たちは、他者の心の状態をいかにして理解しているのだろうか。認知科学や心の哲学は、この問題に「心の理論(Theory of mind)」論争という仕方で取り組んでいる。この論争では大きく分けて「理論説(Theory theory)」と「シミュレーション説(Simulation theory)」が対立している。このような状況に対して、近年アメリカの現象学者であるS・ギャラガーが「相互作用説(Interaction theory)」を唱え、二人称的な他者理解の重要性を強調している。本発表の目的は、相互作用説がもつ新たな展開の可能性を明らかにすることにある。そのために発表者は、触覚的な経験というこれまで十分に解明されてこなかった現象学的に重要な概念を手がかりにして考察する。

5 ポスト現象学の批判的検討―技術の使用における反省的振る舞いという観点から

大家慎也(無所属)

  P-P.フェルベークによる技術のポスト現象学は、技術の使用の場面において人間・技術それぞれが果たす役割を重要な検討要素とする。技術の役割は人間の認識・行為能力の形成を助けることであり、人間の役割はそれを活用して自分なりに善く生きる自由と責任を発揮することである(Verbeek 2011; 2014)。これらは技術の政治哲学と倫理学の基盤になる(Verbeek 2011;2020)。こうした説明は、人が技術の役割を適切に認識する場合に現実をよく捉えている。一方、それを適切に認識することが困難な幾つかのケースではうまく機能しない可能性がある。本発表では反省的振る舞いという観点から以上の問題を検討する。

6 ひきこもりをめぐる現象学的解釈試論

小田切 建太郎(立命館大学)

  報告者は、これまで哲学研究の分野に身を置いてきたつもりだが、直接的・間接的にひきこもり当事者・経験者を知っているせいか、ひきこもりについて何か(哲学的・倫理学的な)話ができないかと言われることが何度かあった。これまで精神医学や社会学が関わる問題に直接触れる機会はなかったが、どの程度学的意義があるかまたうまくいくかはさておき、今回はそうした声への応答(の準備)として、精神医学や社会学も顧慮しつつ、現象学的観点を用いて当事者の証言・語りの解釈を試みたい。
 仮の見通しとして、まず、「ひきこもり」が名詞化的な固定化を被ってきたという当事者などからの専門家言説への批判と、これに対する動詞的把握を取り上げ、ひきこもり言説のなかでの現象学的当事者・経験者観点の位置づけを明確化しておく(1節)。つぎに経験者の語りから、選択の自由をめぐる生きづらさを摘出する(2節)。最後に、別の当事者の語りにおける自由をめぐる生きづらさを、ケアなどに関する実践的な現象学研究を参照しつつ、能力性/無力感とそこにおける自覚的知の意義といった観点から解釈することになる(3節)。


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【シンポジウム】 「現象学とエンパワメント」                      

司会:池田喬(明治大学) 稲原美苗(神戸大学)
提題者: 石田絵美子(兵庫医療大学) 宮原優(立命館大学) 前田拓也(神戸学院大学)

 現象学は社会学が関心をもつテーマを扱うときに頻繁に呼び出されてきた。ジェンダーと疾病や障害はその典型である。かつては精神疾患への現象学的アプローチが影響力をもったが、その後、精神障害に限らず、様々な疾病や障害への現象学的アプローチが試みられてきた。石田絵美子氏の『「進化」する身体: 筋ジストロフィー病棟における語りの現象学』(ナカニシヤ出版、2019年)はその最近の成果である。また、ジェンダーについても「フェミニスト現象学」が世界的に大きな研究領域となり、日本でも稲原美苗・川崎唯史・中澤瞳・宮原優編『フェミニスト現象学入門』(ナカニシヤ出版、2020年)が出版されるに至っている。
 こうした展開において「現象学」に託されているのは、一人称的経験の記述だとひとまず言える。一人称的経験の記述の価値は、当然のことながら、三人称的観点からの説明的記述と同じ基準では測れない。三人称的で客観的記述と称するものの正確さではなく、むしろこれとは別の意味での記述の価値を人が現象学に認めるとき、現象学的な経験の記述には広い意味で「エンパワメント」のはたらきがあるという理解が含まれているように思われる。つまり、社会的に抑圧されたり不利な立場に置かれた人々が自らの状況を理解したり、自分自身について語るための言葉を獲得したり、以前より生活を自分でコントロールし、自分らしく生きたりできるように支援すること、そうした支援になる考え方を促進すること、などである。
 学問の価値は、必ずしも正確な記述と称されるもので判定されるわけではなく、プラグマティストが考えるように、日常生活の問題を改善するという観点から評価されることもできる。その学問が無力化された人々をエンパワーするという観点から、その学問の価値を考えることも可能だろう。そもそもフェミニズムや障害学はエンパワメントの課題と密接に結びついてきたのだから、現象学が、ジェンダーや障害のテーマと関わるときにもエンパワメントの観点からその価値を再考することには意味があると思われる。
 そこで本シンポジウム「現象学とエンパワメント」では、障害とジェンダーに関する現象学的研究をされている石田絵美子氏(兵庫医療大学)と宮原優氏(立命館大学)に加え、福祉社会学と障害学の研究者である前田拓也氏をお迎えし、エンパワメントの観点から見たとき現象学はどのような学問的アプローチとして現れるのかを社会学の観点を踏まえて考えたい。まず、進行性・難治性の病をもつ人々の経験を現象学的に記述することで,ステレオタイプ的な見方とは異なるその人々の姿を示してきた石田絵美子氏(兵庫医療大学)のご提題では、こうした現象学的記述がもちうるエンパワメントの可能性が考察される。次に、月経などの女性の身体経験の現象学的研究に従事してきた宮原優氏(立命館大学)のご提題では、乳児のケアの現象学的分析に行われ、それによって保育者のニーズを描出することが試みられる。最後に、前田拓也氏(神戸学院大学)のご提題では、障害者自立生活運動の実践において健常者が障害者の介助を「できるようになっていく」プロセスに注目し、このプロセスは介助する/される関係性のなかでどのように経験されるのか、それらの記述のもつ意義は何かが考察される。以上の三つの提題のあとには全体討議を通じて「現象学とエンパワメント」というテーマについての理解を深め、今後の課題を明確にしたい。
 (企画実施責任者:池田喬・稲原美苗)

各提題趣旨

「障害をもつ人々の経験の現象学的記述より,「エンパワメント」について考える」
石田絵美子(兵庫医療大学)

 進行性の筋ジストロフィー症や完治が難しい慢性精神疾患を患う人々は,障害者という呼び名のもとで,社会の中で生きづらさを抱えながら生活している「不安や葛藤を抱える人々」/「理解困難な人々」というステレオタイプ的な見方をされてきた。これまで報告者は,こうした進行性・難治性の病をもつ人々の経験を現象学的に記述することによって,上述したようなステレオタイプ的な見方とは異なる姿,すなわち抑圧・制約を受けた状況下にあっても,さまざまな方法を駆使して自分らしく生き抜くことでエンパワメントしている姿を見いだしてきた。しかし,現象学的記述そのもの,あるいはその記述の過程で情報を収集することが何か/誰かに作用し,進行性・難治性の病をもつ人々やその周りの人々のエンパワメントに影響を及ぼすかどうかについては検討してこなかった。そこで本報告では,そのような彼らの姿を発見・記述することが彼らへの支援へとどのようにして繋がって行くのか,現象学的記述が持つエンパワメントの可能性について考察する。

 

「乳児との時間」
宮原優(立命館大学)

 現代の日本社会において乳児の養育が極めて困難であること、その要因として産後のホルモンバランスの変化やワンオペ育児などだれにも頼れない育児の過酷な状況などが指摘されている。しかしながら私がここで考えたいのは、一人あるいは二人で育児することの大変さとは何なのか、何が経験されているのかという点である。
 言語を持たないのはもちろんのこと、大人同士のコミュニケーションのルールがなく、また振る舞いの規則性もなしに、自分なしには生きていけないような弱弱しい人間をケアするとはどのような経験であるのか、現象学の概念に即して分析する。大人が一人で乳児の育児の大半を担う場合、往々にして言語は介在しない。言葉の外で営まれるこうしたケアは、言語化が極めて困難である一方で、保育者の多くのニーズを蔵していることを意味しうる。何が経験されているのかを分析することによって、保育者のニーズを描出することを目的とする。

 

「介助が「できるようになる」とはどのようなことか──身体障害者の自立生活運動における介助者の経験と語りから」
前田拓也(神戸学院大学)

 他者への「ケア」および介助という行為を記述することそれ自体が、とくにだれかを「エンパワメント」することはない。むしろわたしたちは、それをすることで、しばしば他者の「力を奪う」。こうした前提のもと、「ケア」や「支援」をめぐる社会学の研究動向においては、それらを「身をもって」考える研究や議論が活発におこなわれてきた。こうした議論ないし方法は、現場の「日常性」から出発するとともに、つねに研究者/調査者による自分自身への問いかけにならざるを得ないだろう。
 本報告では、とくに「障害者の自立生活運動」という実践において、健常者が障害者の介助を「できるようになっていく」プロセスに注目する。それらは、介助する/される関係性のなかでどのように経験されるのだろうか。これらを記述することを通して、「自立した生活」がどのように維持されているのか、また、それらの相互作用を記述することは「無力化」の過程に抗するにあたってどのような意義をもつのかを検討する。

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(c) 2021 Japanese Society for Phenomenology and Social Sciences