日本現象学・社会科学会 第31回大会プログラム

会場:立正大学品川キャンパス  ※アクセス(新しいウィンドウが開きます))

大会参加費:会員無料、非会員500円(ただし大学学部生は無料です。)

【第1日:2015年12月5日(土)】(1号館1階第3会議室)

12:00 受付開始

12:30~14:00 一般報告1 (→企画趣旨・概要


12:30~13:15

     マイノリティのアイデンティティの固定性の問題について
                                                                      ――物語的自己論を手がかりに
大坪 真利子 (早稲田大学大学院)

13:15~14:00
     「ひきこもり」経験における「問い」
関水 徹平 (立正大学)

14:00~14:15 休憩


14:15~17:30  シンポジウム1「ヘイトスピーチと差別」 (→企画趣旨・概要   

司会:   池田 喬 (明治大学)
提題者: 堀田 義太郎 (東京理科大学)    
郭 基煥 (東北学院大学)
金 明秀 (関西学院大学)
コメンテータ: 木村 正人(高千穂大学) 

18:00~ 懇親会(会場:立正大学品川キャンパス 2号館12階 ラウンジ芙蓉峰)

        ※懇親会費(一般:4000円、非常勤:3000円、学生:2000円)

 

【第2日:12月6日(日)】(1号館1階第3会議室)

9:30 受付開始

10:00~11:30 一般報告2 (→企画趣旨・概要
10:00~10:45 
    Do we need a more comprehensive concept of meaning? Schutz and Nishida on "spontaneity"
Jan Strassheim (早稲田大学)
10:45~11:30 
「誰」の問いと物語 ――『存在と時間』と『美徳なき時代』
木村 史人 (立正大学)

 

11:30~13:30 委員会 ※委員のみ(1号館1階第4会議室)

13:30~14:00 総会(1号館1階第3会議室)

14:00~17:00シンポジウム2 「エコロジカルターンの倫理学―ただ走る、よく走る、べく走る-状況に<よい・しかるべき>行為は倫理的・道徳的な意味での<よい・しかるべき>行為の根拠たり得るか?」  (→企画趣旨・概要  
司会: 染谷 昌義 (高千穂大学)
提題者: 直江 清隆 (東北大学)
柳澤 田実 (関西学院大学) 
三嶋 博之 (早稲田大学) 

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企画趣旨・概要

【一般報告 1】

1 マイノリティのアイデンティティの固定性の問題について--物語的自己論を手がかりに

大坪真利子 (早稲田大学大学院)

 少数派カテゴリーに属する者のうち、その属性が不可視である者は、属性に言及する語りが「告白」とみなされ、そのことによってカテゴリー自体が「秘匿された存在」として位置付けられる。本報告ではこういったマイノリティにたいする定型的な物語理解によって、アイデンティティが固定的に構成されていく問題を、物語的自己という視座を手がかりに検討する予定である。

2 「ひきこもり」経験における「問い」

関水 徹平 (立正大学)

 「ひきこもり」経験者の上山和樹は、その著書『「ひきこもり」だった僕から』(2001年、講談社)の中で、「ひきこもり」とは何よりも問いである、と書いている。本報告の目的は、「ひきこもり」経験についての上山の解釈を導きの糸として、私がおこなったインタビュー調査から得られた「ひきこもり」経験について語りを考察し、「ひきこもり」経験における「問い」とは何か、その「問い」が「ひきこもり」経験においてどのような意味をもっているのかを明らかにすることにある。その際、ハンナ・アーレントによる「現れ」に関する議論を参照しつつ、「ひきこもり」経験者にとっての「問い」の意味を考察する。

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【シンポジウム1】 ヘイトスピーチと差別                     

司会: 池田 喬 (明治大学)
提題者: 堀田 義太郎 (東京理科大学)
提題者: 郭 基煥 (東北学院大学)
提題者: 金 明秀 (関西学院大学)  
コメンテーター: 木村 正人 (高千穂大学)

 ヘイトスピーチが広がってきた社会的背景については、様々な議論がある。グローバル化や新自由主義の進展に伴う、社会の流動化や「居場所のなさ」に焦点を合わせる議論や、インターネットの普及に伴う排外主義団体による動員構造の変化を重視する議論、戦後長きにわたり、植民地支配の問題を曖昧にしてきたことを問う議論、韓国や中国の経済力や国際的地位の上昇に対する「日本人」の「焦り」や「不安」を遡上に載せる議論などがある。
 とはいえ、行為者を社会的条件の単なる反映として見なすのでなければ、こうした社会的条件の変化について論じたときには、その次に、このような問いが発せられてしかるべきであろう。すなわち、これらの外在的な条件が行為者の内に取り込まれるメカニズムは何か、という問いである。
 ヘイトスピーチは、標的とされた人たちに深刻なダメージを与える以上、早急に対策が求められる。実際、ヘイトスピーチに関する法的規制に関する議論も広がりつつある。しかし、そのときも、行為者を社会的条件の単なる反映として見なすのでなければ、規制についての法的議論と同時に求められるのは、法という外在的力を正当化する、行為者内部の、あるいは行為者間の、すなわち生活世界における相互主観的な規範を明るみに出し、公共化することだろう。要するに、生活者のうちに、暗黙のうちに書き込まれているような規範を析出し、そこからヘイトスピーチの害を言語化するという作業が求められる。その作業がなされない限り、ヘイトスピーチの法的規制は、「露骨な差別」を、それ以前において主流であった「目に見えない差別」に差し戻すこと以上の結果を望めないように思われる。
 以上のような観点から、本シンポジウムでは、①政治学や倫理学をベースに差別問題について論じてきた堀田義太郎氏(東京理科大学)に、そもそも「差別扇動」としての「ヘイトスピーチ」の「悪質さ」がどこにあるのか、②現象学に学びつつ差別問題、特に在日問題について論じてきた郭基煥氏(東北学院大学)に、ヘイトスピーチに人が誘引されるのはなぜか、③社会学的量的調査を元に、同じく差別問題について論じてきた金明秀氏(関西学院大学)に、差別という行為に通底する暴力のありようを見据えた場合に有効かつ必要なヘイトスピーチへの対抗戦略は何か、という点について、論じてもらう。
 蛇足ながら、ヘイトスピーチは、それが何よりも、「私たち日本人」に対する脅威がすぐ傍に迫っている、ということを言いつのるものである限り、現在の安全保障関連法案の必要を論じる人たちのロジックと通底しているように思われる。そうである限り、ヘイトスピーチについて考えることは、ただ在日問題について考えるというだけではない射程を持っていると言える。多くの方の参加と積極的な発言を期待しています。(企画担当委員:郭 基煥、池田 喬)

各提題趣旨


差別扇動としてのヘイトスピーチの悪質さ                          

堀田 義太郎(東京理科大学)

 「差別の扇動」が「ヘイトスピーチ」の本質的な要素の一つであるという認識は、ある程度共有されていると言えるだろう。ただ、ヘイトスピーチとされる言論や表現には「差別扇動」以外にも、たとえば暴言や中傷、攻撃や迫害、暴力の扇動、敵意の助長、深刻な侮辱、標的とされる集団の存在の否定や破壊など、様々な悪質な要素が含まれ得る。
 本報告の目的は、表現形態としてはより「穏当」で「非感情的」な言論や表現にも共有され得る要素として、「差別扇動」という要素を特に取り上げ、その悪質さを解明することである。それを通して、「差別扇動」としてのヘイトスピーチには、いわゆる「差別」を超える特段の悪質さがあることを、その理由とともに示したい。

 

ヘイトスピーカーは何を嫌悪しているのか                             

郭 基煥(東北学院大学)

 街頭のヘイトスピーカーたちは、在日コリアンを「おぞましい存在」として示すことに、ある種の快楽を見出しているように見える。こうした現場のリアリティを考えるとき、ヘイトスピーチは【恍惚的な嫌悪の表明】として捉えることができるだろう。では、【恍惚的な嫌悪の表明】へと人を促すものは何だろうか。本発表では、イデオロギーと主体化に関わるルイ・アルチュセールの理論と、それについてのジュディス・バトラーの解釈を手掛かりに、この問いに答えることを試みる。これを通して、最終的には、ヘイトスピーチに見られる在日韓国・朝鮮人への激しい嫌悪が、主体化以前の様態にある自分自身への嫌悪の投影であることを示したい。またデモにおいて見られる恍惚感が、大文字の主体の元で小文字の主体として包摂されることによってもたらされるものであることを論じる。

 

公正基準と差別の論理--反差別運動が採用すべき3つの二正面作戦         

金 明秀(関西学院大学)

 従来の差別研究において、ミクロな次元の差別事象は2通り表現様式に分類できると指摘されてきた。(1)見下し・序列化、(2)遠ざけ・差異化である。ある集団に帰属する者を、「あの人たちは劣っているのだから不利な扱いを受けても仕方がない」と考えるのが序列化であり、ある集団に帰属する者を異質だとみなし、忌避したり、資源を共有するための集団や組織から排除したりするのが差異化である。差別事象の解決のためにはこの双方を視野に含む二正面作戦が必要であり、そうでなければ片方の差別への抵抗がもう片方の差別へと転化する危険性が高いとされる。
 しかし、この図式にはアイデンティティ・ポリティクス(承認の闘争)の視座が含まれておらず、「平等を装った同化(無視)や、むしろ配慮しその価値を称揚する同情や美化(特別扱い)が、たとえ悪意がなく、無意識的にでも、他者化や客体化、卑下や差別につながってしまう」という様式の差別事象を捉えることができない。そこで本報告では、分配の公正を巡る議論を手がかりに、反差別運動が採用すべき3つの二正面作戦について論じる。また、2013年以降に立ち上がった反レイシズムのカウンター運動をめぐって激しい路線対立が生じた理由について考察する。

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【一般報告 2】

3 Do we need a more comprehensive concept of meaning? Schutz and Nishida on "spontaneity"

Jan Strassheim (早稲田大学)

 Numerous studies suggest that we communicate by adapting to others and to the situation at hand rather than by conforming to shared rules. This flexibility is not adequately reflected in a phenomenology which bases meaning upon types or routines. Among the authors most advanced in this respect is Alfred Schutz, who insists that established meaning-patterns remain valid "only until further notice". However, even this qualified view implies a primacy of the established pattern in which any change in meaning depends on the occurrence of a "problem" or a "crisis". In order to do justice to the free and smooth changes which make us open (at least in principle) to other people and novel situations, attention is drawn to the term "spontaneity" used both by Schutz and by his contemporary Nishida Kitaro-. Changes in meaning may be spontaneous in the sense of (1) having an inherent motivation and of (2) happening in an automatic manner frequently below the level of consciousness. This idea is distinct from accounts which appeal to factors working outside, or even against, meaning. Instead, in line with Nishida's critique of substantializing the subject, we might need a more comprehensive concept of meaning which includes its "spontaneous" flexibility.

4 「誰」の問いと物語 ――『存在と時間』と『美徳なき時代』

木村 史人 (立正大学)

  『存在と時間』において現存在は「誰か?」として問われており、非本来性においては「世人」、「誰でもない者」と答えられ、本来性においては先駆的に決意している者と答えられる。しかし、彼の実存論的な現存在分析は、本当に我々が「誰」であるのかを明らかにするものであったのであろうか。このような疑念が生じるのは、我々が誰であるかは「物語」においてのみ明らかとなると考える、一連の物語論の指摘を念頭に置くことによってである。この指摘が正しいとすれば、物語についての考察が欠けている『存在と時間』の分析では、本当のところ我々が「誰か?」という問いは答えられないことになる。
 本報告では、マッキンタイアの『美徳なき時代』第十五章において語られる物語論を踏まえて、『存在と時間』の「本来性‐非本来性」の議論を捉え直すことを試みたい。

 

【シンポジウム2】 エコロジカルターンの倫理学―ただ走る、よく走る、べく走る-状況に<よい・しかるべき>行為は倫理的・道徳的な意味での<よい・しかるべき>行為の根拠たり得るか?

司会:  染谷 昌義 (高千穂大学)
提題者: 直江 清隆 (東北大学)
提題者: 柳澤 田実 (関西学院大学)
提題者: 三嶋 博之 (早稲田大学)

 21世紀の心の科学や哲学の特徴は、embodied, embedded, enactive, extendedの4つのeの頭文字をとって、俗に4Eと呼ばれる(Rowlands, 2013)。4Eの登場からわかるのは、脳であれ精神であれ、自己充足的に完結した実体ととらえられていたココロについての見方はもはや脱構築されつつあるということである。ココロは、延長し周囲と相互作用する活動的な身体とともにあり(embodied)、その身体を取り囲む環境や状況とともにあり(embedded)、その環境との応答交渉をダイナミックに行う感覚-運動系としてあり(enactive)、歴史文化的に改変され、道具や制度を備え他者のいる環境をもココロのはたらきの一部に組み込んだものとしてある(extended)。ココロは、真理を認識して意思決定をし身体に運動指令を下す君主から、生存のための資源と生存を脅かす危険とが同居し、仲間と敵がいる世界のなかで、世界とともに、世界と交渉しながら生きる道を切り開く実存者へと転換されたのだ。
 しかし、4Eのような、延長ゼロの精神から外へ外へとはたらきを拡張し、ココロのはたらきをとりまき、それを支える不可欠な環境・周囲の豊かさに気づいていく運動が進められながらも、そうしたココロ・実存者についての見方の転換は、倫理や道徳に関わる問題系と十分にうまく結びつけられているとは言い難い。環境とのどのような交渉が望ましい行為なのか、ありうべき周囲とはどのような周囲なのかだろうか。その場にふさわしい行為、環境に適した行為、上手な行為は、必ずしも倫理的・道徳的な意味での「よい」行為、「すべき」行為であるわけではない。路面の状況に適した歩行運動や、ロクロを使った陶芸家の巧みな技は、周囲にしかるべき見事な調整をしているとはいえ、そのままでは倫理的によい、規範的にすべき行為とは言えないだろう。しかし、ここには、行為の「よさ」や「正しさ」を考えるうえで、さらには、よい行為やすべき行為を支え引き出す周囲を考えるうえで何かヒントが隠されてはいないだろうか。
 広い原っぱで、開けた庭で、野原で、子どもたちはまず走り出す。ただただ遮るものがない場所で走る。地面や路面のデゴボコや向こうから走ってくる子どもに対応できず、その走りはたどたどしい。石につまずいて転んでしまうかもしれない。やがて子どもは周囲をよく見ることや地面の感触を学ぶ経験を得ることで、自らの走りを巧みに調整していくようになる。さらに学校文化に参入すると、ラインをはみ出さず、スタートという時間を遵守し、誰よりも早くあのテープを切ることが「望ましい」とされる競い合いの走りを子どもは始める。
 本シンポジウムでは、衝動に近い「ただ走る」から「うまく走る」を経て「べく走る」への系列のなかに見られる連続性と差異を一つの象徴として、行為の規範性や倫理性の根拠を、環境との相互交渉のなかに探す生態学的な試みを提示してみたい。提題者の3名は、先に示した4E的な主体観、そして主体をとりまく環境には個別的であれ集団的であれ行為をガイドする豊かな資源が潜在するという生態学的な観点を共有している。そこで、直江は技術哲学の立場から、柳澤は生態学的哲学の立場から、三嶋は生態心理学の立場から、主体が、自然物、他の生物、他者、人工物、制度が備わった広い意味での環境のなかで「うまく」やっていくこととはどのようなことなのか、そしてそこにはどの程度まで倫理(よい)や規範(べし)の根拠があるのかを考察し、それぞれの意見や問題点を提示してもらう。そのうえで、エコロジカルターン(生態学的転回)を経た後の倫理学や行為の哲学の方向を考えてみたい。
 (企画担当委員: 直江 清隆)

各提題趣旨

状況において<しかるべく>使うこと

直江 清隆 (東北大学)

道具を用いて何かをする―例えばロクロを回して陶器を作る―とき、道具を介することによって私たちの身体感覚は変容し、環境との関わりも変容する。しかも行為の進行に伴って刻一刻と変化していく。私たちはその際、環境を類型的に捉えることで適切な処置をするが、同時に、その都度の状況の変化に対応することで<しかるべく>行為している。こうした<しかるべく>から<べき>への移行と、その逆のベクトルについてたどりながら、技術という「媒介」を議論する難しさと課題を提起したい。

<よく動く>と<べく動く>の<よく>と<べく>は何を根拠に成立するのか

柳澤 田実 (関西学院大学)

E・リードなどの研究を参照しながら、生態学的観点から規範=<べき動き>を捉え直すならば、生態学的に優れた<よき動き>が習慣化し、多くの人がその習慣を共有した結果生まれる、とひとまず言うことができる。しかし、その<よき動き>や<べき動き>が含意する最適性は、単に目的遂行のための機能的合理性に尽きるものなのだろうか。また、規範的行為の最適性に、機能的合理性をはみ出すものがあるとしたら、それは何だろうか。幼児のかけっこの学習や食事のマナーの学習を題材に、他者も含めた環境の配置という観点から再考する。

<よく走る>を支える光学的流動と、<べく走る>ための光学的流動の生成

三嶋 博之 (早稲田大学)

環境内を動物が直進すると、その動物の周囲を取り囲む景色は、移動による将来の到達点を中心として放射状に流動する。この「光学的流動」(Gibson, 1966, 1979)を利用して、動物は自身の移動を知覚的に調整し、また経験を通じてより<よく走る>ことが可能となるが、一方で、光学的流動は動物自身の動きを反映しており、従って動物は光学的流動を目的に応じて<しかるべく>生成することが可能でもある。知覚と行為の界面として機能する光学的流動が、<よく>と<べく>の界面としても機能する可能性について提起したい。

 

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(c) 2015 Japan Society of Phenomenology and Social Sciences