会場:龍谷大学大宮キャンパス ※アクセス(新しいウィンドウが開きます))
大会参加費:会員無料、非会員500円(ただし大学学部生は無料です。)
12:00 受付開始
14:00~14:15 休憩
司会: 青山 治城 (神田外語大学)
提題者: 青山 治城 (神田外語大学)
嶋根 克己 (専修大学)
井上 治代 (東洋大学)
※懇親会費(一般:4000円、非常勤:3000円、学生:2000円)
9:30 受付開始
11:30~13:30 委員会 ※委員のみ(西黌2階大会議室)
13:30~14:00 総会(清和館3階ホール)
ポスター(PDFファイル)(再配布等歓迎です。ファイルをダウンロードしてご使用ください。)
司会: 青山 治城 (神田外語大学)
提題者: 青山 治城 (神田外語大学)
嶋根 克己 (専修大学)
井上 治代 (東洋大学)
死刑、それは多くの国ですでに廃止されているにも拘らず、日本ではなお多数の支持を得て存続している。犯人の死を求める感情(?)はいかなるものであるのだろうか。刑罰としての死を求めているのか、それとも自分にとって身近であった者に死をもたらした者の存在そのものを認めたくないのか、単なる個人的復讐心の発露にすぎないのか。刑罰であるとすれば、その社会的正当性が問題となり、主観的感情の問題であるとすれば、それが社会的に支持される根拠が問題となる。
死の意味を1人称、2人称、3人称に区別したのは、周知のようにV.ジャンケレビッチであるが、彼は次のように述べている。「自分が遠近法の中心であるという感情、つまり第2番目、第3番目の人々が同心円をなして自分のまわりに順に並び“あなたが”という第2人称主格と“かれが”という第3人称主格が自分との関係において定義されているような自己中心的な中心であるという感情と、他方、人々の数だけ中心があるというような他者性に対する共感、この自己中心主義と他者中心主義とは相矛盾する。両者の葛藤が“われわれ”という逆説を生じせしめる。」(仲沢紀雄訳、26-27頁)と。
他人の死を求める人にとって、その死は2人称の他者の死なのか3人称の死なのだろうか。少なくとも「遺族」と言われる者以外の者にとっては第3人称であるはずだが、そこに「ほとんどわれわれの死のようなもの」を感じる心性とはいかなるものなのだろうか。2人称の死に直面した者が3人称の死を求めるのはどのような事態なのだろうか。実態としては、2人称の相手に死を与える(殺す)ことが殺人事件の半数に及ぶことから、ことはより複雑化する。それに加えて、死に関する意識は、死の類型(犯罪死、災害死、病死、事故死等々)によっても異なるが、そうした相違を生む要因はどこにあるのだろうか。
このような問題意識から、このシンポジウムでは、死の社会的意味を考えてみたい。青山は、法哲学の立場から、刑罰としての「死」が成り立ちうるかどうか、死刑を求める人々の意識を問題として取り上げる。嶋根は、社会学の立場から、大量死の死者記憶がどのように「博物館化」(社会に広く拡散している記憶が、博物館・資料館において焦点化・固定化されること)について論じる。扱われる対象はヨーロッパにおけるユダヤ人の大量虐殺の記憶や、アジア・太平洋戦争での大量の死者についての日本人の記憶である。「場」の磁力に引き寄せられてさまざまな記憶が結晶化され、多くの観覧者がそれを見ることで「歴史の正統化」が行われていくが、そこには記憶の巡るさまざまな葛藤や社会運動(「記憶の政治学」)が見て取れる。井上は、現代日本の新たな葬儀、埋葬形態に実践的に関わってきた経験を踏まえ、スピリチュアル・ケアの観点から新たな死生観についての報告を行う。
死の問題は、いわば永遠のテーマでもあり、なかなか主題を絞ることが難しい問題であるが、今回は、死にゆく者、残される者にとって、どういう意味をもつか、両者の関係の違いや死に方の違いによってどのようにその意味が異なるのか、そうした点を問題にできればと考える。主観性と客観性とが一種逆説的に関係する「死」の問題は、現象学的思考にとっても格好の主題と言えよう。
(企画担当:青山 治城)
3 足尾からフクシマへ:3.11以後の現在における〈知〉の傾動
周藤 真也 (早稲田大学)
2011年の東日本大震災における福島第一原子力発電所の事故は、さまざまに過去の出来事に対する想起を呼び起こした。その想起が向けられた代表的な宛先が、水俣であり、足尾である。しかし、近年の日本社会において、それらの周辺においてさまざまな歴史の再構成が試みられていたことも事実である。たとえば日本の「公害の原点」として主張される場所は、足尾と水俣のほかにもう一箇所あったこと。四日市市の公害資料館設置問題は、日本の「四大公害」のうち、唯一公設の資料館が設置されていなかったことと関係していたこと、などなどである。本報告では、そうした現在の状況において、一つの方向性に集約される力について検討する。たとえば、NHKで2014年に放映されたテレビドラマ「足尾から来た女」において、主人公の女性は、実は全く足尾から来ていないにもかかわらず、こうした標題が認められたのは何を意味するのであろうか。本報告では、こうした主題を、ある一枚の写真を読み解くことを通して、現在における〈知〉の傾動を明らかにしていきたい。
フクシマの様々な出来事において「母子避難」は最も悲劇的な様相を呈しているひとつである。「母子避難」を巡る諸言説・諸表現のなかに現代社会の問題点を見いだすとともに、「生産」と「再生産」の矛盾としての環境問題を克服する「公正な持続可能社会」の諸条件を明らかにしたい。それはまた、フェミニズムの再考を意図することにもなるだろうし、Lebensweltのエコロジカル・ターンによって「生活世界」を「生命世界」と読み換えることにもつながるだろう。
司会: 砂川 裕一 (群馬大学)
提題者: 西口 光一 (大阪大学)
山本 冴里 (山口大学)
砂川 裕一 (群馬大学)
「言語と言語教育・・・」と語りだすとき、それを聞く人はどのようなことを思い描くだろうか。“体系的に完備した客体的な言語存在”が先ず在って、その体系から何がしかの部分的事象を取りまとめつつ記憶するといった“子供の頃以来の語学学習の実感”であろうか。それらを繋ぎ合わせる“と”は、既在の言語についての体系知(ラング的体系についての知識)とその体系知を学習し習得し運用できるようにする効率的方法や活動の在り方(パロール的活動へ向けた訓練)を直截に接続するかのようでもある。非母語(いわゆる外国語)の学習・習得を論ずる場面においてはとりわけそのような通念にまとわりつかれ捕われうる。
現在の日本語教育学は、戦前・戦中期の日本語教育の理念や教授法との“異・同”について必ずしも自覚的ではない点もあるように思われるが、しかし、近年ではヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアなどの多言語・多文化社会における言語教育理論や言語教育政策の影響のもとで、理論的・実践的にも教育政策的にも新たな展開を模索しつつある。事実上の“移民”の急増とその地域社会への流入、それ故の地域共同体の人種的・言語的・文化的な多様化(混在化)という、いわば現実に強いられた実践的な試行ヘと比重が移動しており、通念への安易な依拠と相俟って「言語と言語教育」の基礎的・原理的な理論的剔抉への機運は必ずしも充実しているとは言えない。
とは言え、「言語はいわゆる社会的事実 fait social
の一班として、諸個人に対して“外部拘束的”に存立しつつも「物在」としての近代的“客観”ではなく、典型的な「用在」であり、しかも、本源的に共同主観的な形象」だと廣松渉が言ってから既に半世紀が過ぎようとしており、「言語は人を陥れるような形而上学的な詭計にみち、神学的な悪戯にみちている」とマルクスが言ったのは一世紀以上も昔の話である。「言語」の存在、より一般的には「記号」存在についても、「言語教育」や「言語媒介的実践活動の習得の在り方」についても、様々な議論が展開されてきてはいるが、現在我々が手にしている理論的な装備は必ずしも十分であるとは言えず、それらの武器を必ずしも十分に使いこなせていないこともまた確かであるように思われる。
日本語教育学の世界においても、「日本語教育はコミュニケーションそのものである」とのテーゼが共有されてから既に15年になろうとしているが、理論的細部についても関連諸概念とその構造的関係性の陶冶についても関心の深まりは必ずしも見られない。
このシンポジウムでは、日本語教育学の領域において通念から逸脱しようとする傾動を共有する登壇者を招く。西口光一氏は言語教育学、言語心理学の視界からバフチン言語哲学の特徴的な視座を再構成しつつ言語教育(日本語教育)の構造転換を見据えようとする。山本冴里氏は日本語教育学・複言語教育・多言語教育の視界から非母語教育(日本語教育)が避けて通れない「境界」性や「周縁」性を捉えようとする。砂川は、司会者として関わりつつ廣松言語論の一班に依拠しつつそれをコミュニケーション論的(自他関係論的)観点から再構成して、上記二人の議論との連接を図り、かつ現象学的思考との近接を図りたいと考える。
(企画担当:砂川 裕一)