会場:東洋大学白山キャンパス ※アクセス(新しいウィンドウが開きます))
大会参加費:500円(会員ではない方。ただし大学学部生は無料です。)
12:30 受付開始
13:45~14:00 休憩
司会:木村 正人(高千穂大学 )
提題者:稲垣 諭(自治医科大学)
村上 靖彦(大阪大学)
浦野 茂(三重県立看護大学)
※懇親会費(一般:4000円、非常勤:3000円、学生:2000円)
10:00 受付開始
12:00~13:30 委員会 ※委員のみ(6号館6103教室)
13:30~14:00 総会(6号館6102教室)
ポスター(PDFファイル)(再配布等歓迎です。ファイルをダウンロードしてご使用ください。)
司会: 木村 正人(高千穂大学)
提題者: 稲垣 諭(自治医科大学)
村上 靖彦(大阪大学)
浦野 茂(三重県立看護大学)
これまで障害経験やその看護等をめぐって、少なくない現象学者が学際的な研究を行ってきており、「現象学と社会科学」のテーマについて示唆のある研究を行っているが、昨今、こうした従来の看護ケアの現象学とは異なり、経験的検証に開かれた「自然化された現象学」のアプローチが注目されている。
ベナー、ルーベルやジオルジといった論者が方法論を整備してきた看護の現象学は、メルロ=ポンティやハイデガーに依拠しながら、看護場面で問題になる主観的経験の記述を、社会学の質的研究をも参照する仕方で議論を展開してきた。基本的にこれらの仕事は、自然科学的に対象化された身体や経験に対して、現象学的な身体や経験を対置するというアプローチを取っているように思われる。これに対し、自然化された現象学は、むしろ哲学的な獲得物を経験科学的な検証に開くことを目指しており、現象学的な身体と医学的・行動科学的に対象化された身体を単に対立させるのではなく、むしろそれらを統合的に捉えようという方向性をもつ。
こうした動向は、現象学と社会科学の関係を再考するにあたっても重要である。とりわけ社会学理論は現象学的方法を、社会学の実証科学化・経験科学化への違和という観点から取り入れてきた面が強く、その現象学自体が今、自然化アプローチを通じて研究を豊饒化させているという点をどう評価すべきだろうか。
他者経験や社会性が問題となる臨床の分野において、観察可能なデータに依拠する仕方で現象学者になしうる独自の貢献とはどのようなものか。また現象学者はそのとき、なにをもって「現象学的」と言いうるのか。現象学の哲学・科学方法論としての独自性がどこにあるのか、向き合うべき課題が山積しているといえる。
本シンポジウムでは以上のような関心から、提題者として以下のお三方をお招きする。『衝動の現象学』の著者で、近著『リハビリテーションの哲学あるいは哲学のリハビリテーション』において現象学の「治療‐探究プログラム」化を提唱されておられる稲垣諭氏(自治医大)、『自閉症の現象学』の著者であり、新著『摘便とお花見:看護の語りの現象学』ではインタビューを用いた「質的研究としての現象学」を披露された村上靖彦氏(大阪大学)、発達障害の臨床現場や当事者研究にお詳しく、エスノメソドロジーの立場から最近の現象学の知見にも目配りされておられる浦野茂氏(三重県立看護大学)の三氏である。フロア参加者による活発な議論を歓迎する。(企画担当:池田喬・木村正人)
忘れられた〈回復〉――森田療法の治療文化とその意義について
櫻井 龍彦(浜松学院大学)
森田療法は、日本が生んだ独自の精神療法であり、各種の神経症の有効な治療法として知られる。そして、症状それ自体をなくそうとするのではなく、症状を抱えたまますべきことに取り組む経験を積み重ね、それを通して、症状があってもそれにとらわれなくなる境地に達することで〈回復〉を果たす点に、森田療法の大きな特徴がある。
こうした点に注目し、本報告では、森田療法にもとづく自助グループ「生活の発見会」の会員へのインタビュー調査と、病と自己物語に関するA.フランクの知見を主な手がかりとして、神経症からの〈回復〉について考察する。そしてそれをふまえ、病からの回復といったとき、症状それ自体がなくなった状態以外は忘れられがちな現代社会において、森田療法がどのような意義を持つのかを検討する。
本報告は、2012 年度年次大会における小林琢自会員による報告「社会団体の〈構成〉―間文化現象学の視点から」に強い刺激を受けたことによるものである。
尾高朝雄の業績は広く深いものがあるが、とりわけそのウィーン留学時に得た関心は、きわめて大きいと私は考える。帝国崩壊後、「オーストリア」という国家の形象をめぐって師ケルゼンの法実証主義が遭遇せねばならなかった問題を、尾高は皮肉にも膨張していく大日本帝国に、現象学とともに持ち帰ることになった。この点で、尾高の枠組みには、ある時代拘束性を免れえないところがあるが、21
世紀初頭、経済成長以降の日本社会における声高な「国家主義」をどう見るかについて、尾高が、ケルゼンとその門下生たちと交わした議論は、今も示唆的である。
報告は、そうした歴史的事情を前提にして、(1)フェーゲリンによるケルゼンの法実証主義批判、(2)尾高における〈団体〉と〈国家〉のジレンマ、(3)根本規範の社会的リアリティ、(4)平和の世界社会的リアリティ、という構成となっている。
(*内容の一部は、2007年オーストリアでの学会において報告したものと重なるが、新たに全体を日本語で作り直したものである。)