会場:神戸大学六甲台第2キャンパス ※アクセス(新しいウィンドウが開きます))
大会参加費:500円(会員ではない方。ただし大学学部生は無料です。)
12:00 受付開始
14:00~14:10 休憩
司会/評者1 中 真生(神戸大学)
評者2 池田 喬(明治大学)
レスポンダント:斉藤 直子(京都大学)
18:30~ 懇親会 (会場:滝川記念会館食堂)
※懇親会費(一般:4000円、非常勤:3000円、学生:2000円)
9:00 受付開始
12:30~13:20 委員会 ※委員のみ(文学部B棟234教室)
13:30~14:00 総会(文学部B棟132教室)
ポスター(PDFファイル)(再配布等歓迎です。ファイルをダウンロードしてご使用ください。)
評者 :中 真生(神戸大学)
評者 : 池田 喬(明治大学)
レスポンダント:斉藤 直子(京都大学)
ポール・スタンディッシュ著『自己を超えて:ウィトゲンシュタイン、ハイデガー、レヴィナスと言語の限界』(斉藤直子訳)(法政大学出版局, 2012年)は、ウィトゲンシュタインとハイデガーとの接点たる「言語の限界」の思想を出発点に、「受容性」と「慎み深さ」の視点から、近代西洋哲学を支配してきた「自律的主体」を超える「自己を超えて」の視座を哲学に蘇らせ、「他者を志向する/別の仕方での教育」の可能性を拓く「教育としての哲学」の務めと哲学の言語の再考を促す。本発表は同書の主題である分析哲学と大陸哲学の創造的緊張関係が開く実践哲学の学際的な意義を、現象学、社会科学、教育哲学を専門とする研究者の対話を通じて明らかにすることを目指す。
司会: 村田 純一
福島第一原発をめぐる状況は依然としてきわめて深刻であり、予断を許さない。本学会では昨年の大会において、「核と社会:原発リスクと社会的選択」及び「信頼」のタイトルのもと、大震災・原発事故関連のシンポジウムを二つ開いたが、今年の土曜シンポジウムでは、引き継いで、現代文明における科学技術の位置づけ、あるいは科学技術と市民社会の関係などについて、3.11以降、様々な観点からなされてきている科学技術をめぐる議論・論争の展開も踏まえつつ、哲学や社会学などの人文学の立場から批判的かつ建設的に考え直してみたい。
第一提題者は、科学技術の哲学や倫理を専門とし、アンドリュー・フィーンバークの『技術への問い』の訳者としても知られる直江清隆氏(東北大学)、第二提題者は、「法の時間論」や「世代間正義」を中心的研究テーマとされている、気鋭の法哲学研究者である吉良貴之氏(常磐大学)、そしてコメンテーターは、技術哲学の日本における代表的研究者の一人である村田純一氏(立正大学)にお願いした。厳しい具体的状況を見据えつつ、新たな理論的視座から領域横断的に議論を深め、実践的・理論的展望を拓り開く手がかりを探る場としたい。
技術について哲学は何が語れるか 直江 清隆 (東北大学)
福島第1原発の事故は、「想定外」「工学的判断」といった曖昧さが技術に孕まれていることを知らしめた。道具的理性、制禦可能性といった哲学や社会学に定番の語り口も破綻したのであり、技術の可塑性、不定性を直視した上で、技術の権力性や技術に内在する正義の問題に分け入っていくことが求められているといえよう。この報告では、原子力に関わってきた技術者からの聞き取り調査にも触れながら、こうした見地から技術とその社会的合理性について論ずる予定である。
科学技術に関わる正義の時間的射程 吉良 貴之 (常磐大学)
科学技術が影響力の時間的射程を延ばすたび、社会はそれに応じた倫理を再構築する必要に迫られる。東日本大震災と福島第一原発事故は、技術倫理と時間性が不可分であることを改めて明るみに出した。脱原発志向と地球温暖化防止策、そしてそれに伴う経済問題が一定の緊張関係に立つように、将来を対象とする倫理は現在世代と将来世代、およびその内部での「分配的正義」の性格を強くする。科学技術が不可避的に抱える不確実性によって事態はさらに複雑化し、公的意思決定の正統性条件が厳しく問い直されている。本発表では特に司法的判断のあり方を素材にしつつ、かかる問題状況における法と正義の問題を考察する。
行為と責任 東 暁雄(大阪大学)
本報告では「行為」の概念を哲学・倫理学の視点から精査し、次いで刑法において問題となる概念上の論点を批判的に検討する。人間の意思は、行為をなすに先立ち、行為の目的を立て、達成のための手段を選択する。意思はいまだ実現されえない現存在への意志・意欲を目的とするところに成り立つ精神の働きである。ゆえに動物的衝動や本能行動は人間的行為とはいえない。 しかし刑法における「過失」や「不作為」などの刑法犯、及び「責任能力」といった犯罪論上の論点に目を向ければ、こうした人間の行為概念を、哲学的視点から再度踏み込んだ考察を行い、刑法上の解釈との異同を批判的に考察することは極めて意義深いものと考えられる。そしてこのような視点からの議論は「実定法学」と「哲学」の間の溝を〈媒介〉する試みでもあるといえよう。
社交不安障害研究におけるライフストーリー研究の意義
――回復者・元患者に対するインタビュー調査をふまえて
櫻井 龍彦 (浜松学院大学)
社交不安障害は、強い緊張や羞恥のせいで他者とのコミュニケーションに困難が生じる病理であり、近年、世界中で大きな注目を集めている。こうした流れを受け、海外では、精神医学以外の領域においても、医療社会学の領域を中心に、社交不安障害に関する研究が徐々に活発化してきている。だが、上に述べたような社交不安障害の性質上、社交不安障害研究ではライフストーリーの収集がほとんど進んでいないこともあり、従来の研究にはある大きな問題があった。 そこで本報告では、回復者や元患者に対するインタビュー調査の成果をふまえつつ、社交不安障害に関する従来の研究の問題点を指摘すると同時に、社交不安障害研究におけるライフストーリー研究の意義について検討する。
社会理論の基本としての社会システム論について、その概略を仮説的に提示したい。根本的な区別として、体系と媒体のそれについて考える。この区別を前提にして、媒体について4範疇を考えることができる。すなわち基礎媒体(光、音)、状況媒体(身体、言語、人)、象徴媒体(貨幣、権力、法、愛、真理)、通信媒体の区別をすることができると考えている。
報告では、これら4媒体の区別をしたのち、とりわけ状況媒体の3種類を中心に説明し、体験と行為の出来と帰属、命題化とレリバンスについての考えを提示する。これに続いて、象徴媒体が可能にする秩序化と、それにより明らかになる社会科学上の基本概念若干(政治と公共性、経済と市場)について概略提示する。
司会: 谷 徹 (立命館大学)
現象学は創始以来さまざまな方向に展開してきたが、しかし、つねにわれわれの「経験」を足場にしてきた。その経験は、「生活世界」的な経験であり、さらに具体的にいえば、歴史的でまた文化的な、間主観的でまた共同体的な経験でもある。この経験のなかで新たな事象が発生する。そして、この経験自体が発生する。しかるに、グローバル化の進展とともに、その経験が、もはや閉じた経験――いや、そもそも完全に閉じた純粋文化など「事実」として存在しない――としては捉えられなくなり、むしろ、その間文化性をますます顕わにしている。この「間」は、しかし、単純に即自存在する自文化と、即自存在する異文化のあいだに事後的に成立するのではない。むしろ、すでに間文化的でもある自文化は、たえず新たな異文化に「開」き、あるいは「閉」じる。それはいわば「門」である。これにおいて生起する諸現象のうち、今回はとりわけ文化の成立、社会団体の成立、社会のダイナミズムに光を当てる。
自然と「文化」の萌芽──メルロ=ポンティ『自然』講義から 廣瀨 浩司 (筑波大学)
メルロ=ポンティは1950年代後半に自然に関する講義を行っていたが、それは自然哲学という領域的な研究に留まるものではなく、むしろこの「野生」の領域において、多元的に制度化されていくものの再考を促すことを第一の目的としている。したがってそれは、社会的・歴史的次元における間文化的なものの萌芽として位置付けられ、現代社会の危機への処方箋を提示するものではある。それではこうした野生の領域と間文化的な領域はどのような関係にあるのか。肉概念の一元性と社会制度の多様性はどのように調停できるのか。晩年の資料にはそのヒントは相対的には乏しいが、社会的なものの身体的・知覚的な基盤という視点から、この困難な問題にアクセスしてみたい。
社会団体の「構成」――間文化現象学の視点から 小林 琢自(立命館大学)
国際問題と呼びうる出来事に直面するとき、自らの所属する社会団体としての「国家」は際立った仕方で経験される。わたしたちはこのとき、それが社会的、歴史的、文化的な個性を示す単位として現れてくるのを経験する。しかしこのときの経験が示す「リアリティー」の解明は、例えば、国家一般という普遍的なものの内にその種差として諸々の個別形態やそれらの関係性を位置づけるような操作には含まれていない。国家の問題が生と科学に多大な影響を及ぼしていた1930年代にケルゼンの純粋法学とフッサール現象学とを学んだ尾高朝雄は、「社会団体(国家)の現実性」という問題を超越論的な現象学的態度において独自の仕方で主題化していた。尾高の理論的背景の限界を確認しつつ、その試みの間文化的考察への寄与の可能性を検討する。
社会の間文化的ダイナミズム――生成と破壊、遭遇と排除 青柳 雅文 (立命館大学)
社会の存立は、文化的運動とつねに不可分であり、その運動のさまざまな局面をつうじて、社会もまたたえず変容を遂げて行く。文化共同体としての社会は、異文化との関係において、あるいはまた同時に社会の内なる異文化性との関係において、それぞれ成立する。異文化との遭遇によって、われわれは他なる文化・社会との開かれた関係性と、自らの文化・社会の完結性を同時に自覚する。この同時進行によって、これまでの「完結した」文化は破壊され、開かれかつ完結した文化・社会を生成する。間文化的遭遇体験は、社会にたいする自覚と批判的視点を生む。本報告では、生成と破壊、遭遇と排除(完結)という、文化の重層的かつ同時的な運動をつうじて、社会をとらえなおす可能性を提示したい。