会場:高千穂大学(東京都杉並区大宮2-19-1) ※アクセス(新しいウィンドウが開きます))
大会参加費:500円(会員ではない方)
12:00 受付開始
14:00~14:15 休憩
18:15~ 懇親会(会場:セントラルスクエア4F 食堂)
10:00 受付開始
12:10~13:20 委員会(セントラルスクエア4Fクリスタルルーム)
13:30~14:00 総会(セントラルスクエア2Fタカチホホール)
震災後、原子力/核をめぐって、さまざまな社会的・制度的・倫理的問題の所在が明らかになっている。国内の全原子炉を2022年までに閉鎖することを早々に決定したドイツでは、社会学、哲学、経済、政治学の専門家、聖職者や労働団体の代表らによって構成される「安全なエネルギー供給のための倫理委員会」がその決定に重要な役割を果たした。しかし事故当事者である日本において、原子力/核の問題は依然として技術的視点からのみ語られがちであり、そのこと自体、原子力/核をめぐるわれわれの社会的選択と責任の所在とをあいまいにしている。
わたしたちが核/原子力エネルギーを選択するリスクは無論、処理方法のわからない大量の放射性廃棄物を抱えることや、事故時のさまざまな直接的被害にはとどまらない。それが、従来人間社会の外側にあったはずの自然の災害リスクを、社会現象として、つまりわたしたちの選択の問題へといわば内部化するという問題であることは、社会学者たちがすでに議論してきたとおりである。しかしながら、見通しが容易ではない(あるいは原理的に不可能な)不確実で不透明な社会における種々の選択を、技術の問題として専門家にゆだねることで、わたしたちは自身の日常の消費生活においてすでに問われているはずの、社会のあり方と倫理の問題を決定的に回避してきたのではないだろうか。原子炉が建設され維持されることによって、それが立地する過疎地域(低人口地帯)の産業構造や日常生活に生じる変化、またそこで働く年間8万人という多くの匿名の被曝労働者たちの存在について、核/原子力の利得と恩恵にあずかる人々、そしてメディアの多くが無自覚であるか黙殺してきた。リスク社会における選択のリスクと負の帰結は、結局は従来どおり、社会的弱者へと押し付けられてきたと言わざるをえない。
震災後の対応をめぐって政治が混迷し、哲学や社会科学もまた積極的な役割をはたしえていない状況において、他方、脱原発をさけぶ市井人による取り組みがあたらしい政治運動のかたちとして着目されている。おりしも格差問題を訴える草の根の抗議運動は全世界に広がっており、路上から立ち上がるこうした運動がいかなる射程と可能性をもちうるだろうか。
初日のシンポジウムでは、これらの諸問題について積極的に発言を続けてこられたお三方をお招きして議論したい。原子炉建設によって変貌していく故郷福島を、震災以前から綿密に取材した労作『「フクシマ」論:原子力ムラはなぜ生まれたのか』を上梓された新進気鋭の社会学者 開沼博氏には、原子炉立地地域を生きる当事者たちの視点から、地域の利害や中央‐地方のポリティクスのなかで立ち上がる社会的選択についてご議論いただく。次いで、『ストリートの思想』『文化=政治:グローバリゼーション時代の空間叛乱』などで、インディーズ文化や「路上の思想」がもつ力について論及されてきた社会学者 毛利嘉孝氏には、脱原発運動の可能性と諸課題についてお伺いする。第三報告者の武田徹氏は、2002年に出版された『「核」論:鉄腕アトムと原発事故のあいだ』においてすでに、「唯一の被爆国」を自認する国家が「豊かさ」を目指し核エネルギー利用を選択するに至ったさまざまな経緯を活写され、震災後に出版されたその増補版においては今回の顛末を単に「想定外」の突発的な事故の帰結としてではなく、歴史的かつアイロニカルな社会的選択による帰結として読み解く必要性に言及されている。「ハンタイ/スイシン派」の対立を俯瞰する評論家・ジャーナリストとしてのお立場から、近著『震災報道とメディア』等で展開されているマスメディアの諸問題について論じていただく予定である。進行中の困難な課題がつきまとう主題であるが、フロアからの積極的な参加と活発な討議を期待している。
(文責:企画委員 木村正人)
「信頼」概念をめぐっては、これまで諸々の学問領域(哲学・社会学・社会心理学等)で、それぞれの学的関心から研究が進められてきた。他方、日常生活のさまざまな場面で、「信頼」が、安心・安全と関係づけられた文脈で用いられているのを目にすることも多かった。だが、〈3・11〉およびそれ以後の惨事で、容易に言葉にし難い状況が続くなかで、(社会における)「信頼」とはいったい何なのか、といった根本的な疑問を感じた人も少なくないのではないだろうか。この点で、「信頼」は、まさに社会の基礎に深くかかわるテーマであるように思われる。
日曜日に開催される大会シンポジウムでは、浜日出夫氏(慶應義塾大学)、嘉指信雄氏(神戸大学)、永守伸年氏(京都大学)、丸山徳次氏(龍谷大学)に登壇をお願いし、今後の社会のあり方も見据えつつ、「信頼」について、理論的・実践的観点をともに視野に入れ、個々の学問領域の枠を超えた議論を深めていきたい。
提題報告では、第一報告として、浜氏に理論的観点から「信頼」について語っていただき、第二報告として、嘉指氏に〈3・11〉後の社会を視野に入れた実践的観点から報告していただく。各報告の概要は以下のとおりである。
「信頼の社会的次元と時間的次元」(浜日出夫氏)
社会学において、信頼概念は、秩序問題の解決を価値規範の共有に求めるパーソンズの規範主義的解決に対して、秩序問題に対する非規範主義的解決として位置づけられる。それはガーフィンケルによって定式化され、ジンメルまでさかのぼる。信頼概念は、自己と他者を橋渡しして相互行為を可能とするこの社会的次元とともに、時間的次元をもつ。すでにジンメルにおいて、貨幣交換を可能とする信頼は貨幣の継続的利用可能性への予期として時間的次元をもっていた。この信頼の時間的次元は、過ぎ去りゆくものを現在に繋ぎとめるとともに、到来しつつあるものを先取りする人間のあり方とかかわっている。本報告では、この信頼の時間的次元を取り上げ、信頼と希望の関係について考察してみたい。
「核/原子力体制と『生活世界』――劣化ウラン兵器問題から考える」(嘉指信雄氏)
放射性廃棄物の軍事利用である、いわゆる劣化ウラン兵器は、「その影響が戦闘地域に限定されえないという意味において“非人道的”兵器であり、予防原則の観点からも禁止されるべき」との国際世論にもかかわらず、湾岸戦争、旧ユーゴ紛争、イラク戦争と使用され続けてきており、WHOなどの国際機関も、「人体・環境への悪影響は科学的に実証されていない」と見なしてきている――広島・長崎、そして福島にも共通する低線量・内部被曝リスクをめぐる論争が大きな壁となっているのだ。本提題では、核時代が連れてきた影ともいえる劣化ウラン兵器問題に光を当て、「核時代の生活世界」をめぐる科学と生‐政治について考えてみたい。
提題報告ののち、話題提供者である永守氏には、英語圏の哲学・倫理学における最近の信頼論研究について紹介してもらい、その観点から質問を行なっていただく。コメンテータの丸山氏には、本シンポジウムの諸論点について、総合的にコメントしていただく。